エッジが効いている

 「エッジが効いてる」という表現がある。
 音楽用語らしいので、元々の意味はわからないが、わたし個人としてはエッジ感と聞くと、
 刃が何かをすーっと切り裂く
といったイメージが湧く。

 わたしがこのイメージに親しんでいるのは、理論言語学において、新しい理論が出るときには、かならずエッジが現れるからだ。
 エッジを生み出すのは、いわば登山ナイフや日本刀を振り回すような研究者で、見方によってはマッドなところがある。

 と言っても、べつに、アインシュタインみたいに髪の毛をもじゃもじゃにしたり舌を出したりする必要ない。学説から判断すれば完全にマッドサイエンティストであったニールス・ボーアは、風貌も服装も、そして人柄も、まるで都市銀行の頭取にしか見えない。

 あまりにも普通過ぎて、かえって怪しいくらいだ。
 何も考えていないようにも見えるし、何を考えいるのかわからないという疑いも抱かせる人である。

 日本にも来て、観光もしており、途中で風邪をひき旅館で寝込んだりしているのだが、そんなことを知っている人は少ないだろう。
 アインシュタインのような、世界の人々に受けるような発言はしなかったからだ。社会から一定の距離を置いて、しかも聖人や厭世家となって山に籠るでもないのは、自己愛も正常な人物と思われる。

 理論言語学には、理論物理学と共有することがある。
 それは、
人間とは何か?この世界とは何か?
について知りたいという気持ちである。

 この課題は、先ずは宗教が担当したのだろう。
 それから哲学が現れた。
 哲学が現れたのは、「人間とは何か?この世界と何か?」という問題を抱えた人たちが、(宗教による救いよりも)筋道のたった納得のいく解答を得たいと思ったからだろう。

 やがて、哲学も思弁的ということになった。
 思弁的とは、頭の中だけで考えている。地に足がついていないということだ。

 そして、科学の登場となった。
 科学の本質は、分析と検証だ。
 科学によって、「これが事実だ」いうことがわかる
・・・とわたしたちは喜んだ。

 今でも、「科学的事実」を持ち出す人がいて、その人は、それが事実そのものだと信じているようだ。
 けれども、神が死んだように、科学もすでに死んでいる。
 
 科学的事実は、常に仮説でしかない。
 つまり、将来、なんらかの方法で否定できる建付けになっていなければ、それは、科学ではなく「感想」でしかなく、よくて疑似科学だ。

 だから、どんな科学的事実も、いつなんどき「これは事実ではなかった、すみません」と撤回されるかわからない。

 わたしなどは「地球は丸い」と信じて疑わないし、さまざまな方法で検証されて揃ったデータも経験的な事実と合致しているので、安心しきっている。
 それでも、科学的事実としては仮説である。
 二十二世紀の人たちにとっては、地球平面説が科学的事実になっていないとは、今のところ、誰にも言えない。
 常識には反しているが、これが科学的な態度である。

 最近の理論物理学の仮説には、宇宙万物の物理現象の情報は二次元平面に書き込まれているとするものがあるそうだ。
 なんじゃあ、それ!?

 理論物理学者は、別に冗談で言っているのではなく、数式から出て来た仮説なのだそうだ。
 地球が球体だとするのも科学的事実である限り、どこまでいっても事実には到達できないとわたしがするのは、そういう説もあるという話を聞くからだ。
 事実は、ベタな言い方をすると、「神の領域」にある、ようだ。

 さて、哲学も死んでいるはずなのだが、いまだに哲学者として大学から給料をもらっている人はいるようだ。
 哲学が思弁によって何を目指したかというと、統合だ。
 統合は、人間のあきらめきれない理想である。
 だから、いまだに哲学が、人間の憧れをこめた学問として保存されているのだろう。

 科学は、人間の分際で統合しようとすることが間違いのもとだとわかった人々が、分析を始めることで発達した。

 そうしているうちに、こっそりと理論物理学や理論生物学が出て来た。数理モデルなどというものが使えるようになった。
 どんなに複雑な数式を作ってもコンピューターが計算してくれる。それで、生物でも化学でも理論を展開させたイメージをディスプレイ上に示すことができるようになった。
 こういう理論なんちゃらという科学は、分析しながら統合を目指すという、欲深い望みを持つ人たちが始めた。

 「理論」という言葉が冠せられた科学の分野では、数学が言語として用いれる。
 自然言語(人間の言葉)ではなく、数学を言語として使えば、頭の中の思弁が、誰もが共有できる数式として統一できる。
 
 この世界とは何か?人間とは何か? 
 その問題について思弁して、頭の中から出て来なければ、例えば、プラトンもスウェーデンボルグもグルジェフもシュタイナーも、独自の世界観を築きつつ、それらがメタ分析的に検証されることはない。

 数学が作り出す数式は、メタ分析的な検証ができる。

 ここで面白いのは、数式による思弁から生み出される仮説が、プラトンやシュタイナーとかいった夢想家のアイデアと似通ってくることだ。

 スピリチュアル系の人たちで、今や、量子論の波動に言及したり、援用したりしない人はほとんどいない。
 アカデミックな人たちは、それを苦々しく思っているが、単なる恣意的な利用であるとばかりは言えない点も(ほんの点「・」であるが)あるとわたしは思う。

 ここでエッジのことに戻るのだが、エッジの効いている理論科学の研究者は、どこかマッドなところがある。
 その科学者のマッドネスが、プラトンなどの夢想家のマッドネスとの共通点だと思う。
 刃物を振り回している狂人(常識から飛び出してしまった人)という点で、同じなのだ。

 その刃物が、何か、既成のもの、変化しないで固まってしまったものを切り裂く。
 
 理論科学のエッジ感、それと同質のエッジ感を、わたしは、下に引用したnoteの記事からもよく感じている。夢想家のマッドネスがここにはあると思う。
 そのマッドネスが、
既成のもの、変化しないで固まってしまったもの
をすーっと切り裂くことをしばしば目撃できる。
 斬られた側は、気づかないかもしれないくらい、繊細な刃だ。

 特に、コメント欄でさらに展開されている部分、
情報がどこにあり、どのように来ているか?
 という捉え方は、最近の理論物理学と同様、何かを切り裂いていると思う。


 

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