愛について

 わたしが何とか文章にしたいと思っていることのひとつに、

愛せるのは女性だけだ
 というものがある。

 わたしたち男性は、色気づいた頃(実際はそれ以前からだが)から老いて死ぬまで「なんとか一人でも多くの女の気をひきたい」と思って生きている。

 それで、
男は女を愛し、女は男から愛される
と思ってしまう。

 一般に、女性も、
「女とは複数の男性から求愛されて、その中から自分の好みを選ぶ性」
なのだろうと漠然と思っているかもしれない。

 女性が身体を、あからさまにしろ、ささやかにしろ、とにかくなんらかの形で露出すると、たちまち男性たちが走って来て群がるので、女性は愛される、そして、男性が女性を愛するように見える。

 四六時中、男性は女性と話したがる、触りたがる、写真に撮りたがる。
 こうした現実を見ていると、男性が女性を愛して、女性は何もせず、ただ存在しているだけで愛されている、と思えてくる。

 男女の性行為は、女性は男性から愛されるという捉え方を決定的にするかもしれない。


 けれども、実際に、社会で起きているものごとの、もっと奥や、こっちから見えない裏にまでまわって見ると、愛しているのは女性である、と思えてくる。

 これをひとつひとつ、具体的にどう描写して、説明していけばいいのか、わたしは、途方にくれていた。
 冒頭に引用した↑の記事『哺乳動物のメス』は、あっさり実例を並べて本質をついている。

 愛することができるのは女性だと薄々感じることができるのは、わたしの中に、女性でもあるわたしがいるからかもしれない。
 けれども、それはわたしの女装した精神かもしれない。
 自信が無い。

 ↑の記事『哺乳動物のメス』は、当事者の書いたものだ。愛している当の本人である。

 愛の定義は難しいが、
いったん愛し始めると、当面の対象を突き抜けて、どんどんと愛が広がり、ついには全人類、全生命、全存在、全世界、宇宙までに広がる
のが、愛ではないかとわたしは思いつつある。

 もし、愛がそういうようなものなら、愛を持ち、愛することができるのは、女性だと思う。

 くりかえしになるが、大分前から、そんなことを考えていて、どうしたら文章になるのかとずっと悩んできたのだが、今朝、ふと、↑の記事を読んだ。
 わたしが書こうと思ったことが、すべてある。

男性同士の人間関係ってかなりワンパターンで世界観もおそろしく狭い。
男同士でつるむのに、
『女とヤリたい』が世界観の前提とは
ほんとうにワンパターンすぎますね。
だけど、
それを変える方法はあるのか?
って言ったら、
無いんじゃないかな??
『女とヤリたい』が基本前提だからこそ、
ホモセクシャルはもうダメで、
もちろん哺乳動物(イヌとか)のオスも
対象外。

 鋭い。
 
 ホモソーシャルについては、わたしも経験しており、わたしには(表面的な付き合いはともく)男性の友人といえる人は(オカマ、オネエを自認して公言している人以外)ひとりもできなかったし、今も、いない。
 男性が女性に対する性欲を絆として群れを成すという指摘は、正しいと思う。
 政党などの政治思想集団が苦手なのも、或る一定の憎悪(性欲と方向が違うだけ)を絆として群れを成す感じがするからだ。
(どうでもいいが、群れを操れる深田萌絵氏はやはり男性的だと思う)

 その他、わたしが考えていなかったこと、知らなかったことも、いっぱいある。

女性は「愛することができる」生命体であることが、散文詩のような文体で、みごとに描かれている。

そして、何よりも、次のような深さ、鋭さがある。

純女(生まれつき女性)でも、
たいていは、
見て見ぬふりをしている部分です。

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