民主主義は正しいのか?

オーストラリアで、14日、先住民の意見を議会に反映しやすくする憲法改正の是非を問う国民投票が即日開票され、否決されることが確実となりました。

アルバニージー首相は「望んだ結果ではなかった」と認めました。

記者
「YESかNOか、国論を二分する国民投票の投票が、こちらで行われています」

「最初のオーストラリア人」は先住民だと、憲法に明記することなどの是非を問う今回の「国民投票」。

地元メディアによりますと、即日開票の結果、ほとんどの州で反対が過半数に達する見通しで改憲案の否決は確実となりました。

これについて、アルバニージー首相は14日夜、会見を行いました。

アルバニージー首相 「今夜の結果は、私が望んでいたものではありませんが、国民の決断とそれをもたらした民主的プロセスを尊重します」

アルバニージー首相は、改憲案に先住民の意見を政府や議会に反映させる諮問機関の創設などを盛り込み、格差是正を訴えていましたが、反対派はこの機関が「先住民」を優先することで社会を「分断」させるなどと主張。

投票前の世論調査では、反対派が優勢となっていました。

▼TBS NEWS DIG 公式サイト

 『日本保守党』の立ち上げを宣言した百田尚樹氏がネットテレビ番組に出たとき、天皇制の在り方などに触れた後、
日本がどういふ国であるかは国民が決めること
と言ひました。
 百田尚樹氏と氏が作る政党を、ウヨクや極端な団体として印象付けたいコメンテーターたちは憮然として黙りました。

 百田氏は、つまり、民主主義を持ち出したわけで、これは戦前の日本だったら「畏れ多くも、・・・」といふ枕詞が出たときみたいなものです。
 もう全員、直立不動。そして、民主主義バンザイ三唱です。

日本がどういふ国であるかは国民が決めること
といふ考へがあるかぎり、百田尚樹氏と日本保守党は、わたしのやうなネトウヨの敵です。←といふことは敵は、一人だけやね^^

 民主主義とは何か?
 自分のnoteの記事で、わたしはしつこく、ネチネチと、問ひ続けてゐます。自由と民主主義を攻撃し始めると、フォロワーがポロポロと減ります。ヤバい奴、頭のワルイ奴と思ふのだと思ひます。←当たってます^^;

 とは言ふものの、わたしは、自由とか民主主義とかは、まったくけっこうなことだと思ひます。それは、愛とか平等とかいふ言葉と同じで、気軽に使へて、なんとなく楽しくなれるいい言葉だと思ひます。
 だから、人気がある。ただ、中身が無い。

 自由と言っても、民主主義と言っても、いいことを言ってゐるといふだけで、何も責任が生じないのは、愛とか平等とかといふ観念と同様、
具体的に誰の何のことを言ってゐるのかとなると、現実には、無限の「多様性」があるからです。エスエムの女王様にとってはおっさんを踏みつけてお金をもらふ仕事も愛の営みだらうと思ひます。ロリコンで快楽殺人者にとっては、少女の首を絞めて死苦を与へつつ性行為をすることも、愛です。わたしは文章によってその様子を美しく描く自信があります。だから、少なくとも美と呼んでも誰かに否定させる気はありません。
 そんなものは愛では無い、美では無い、といふ権利もロジックも、誰にもありません。
 自由とか民主主義といふ観念も同じです。さういふ言葉は中身の空っぽな器です。中に何を盛り込んでも個人の自由なのです。

 小学校では苦しまぎれに、民主主義とは話し合ひだと教へますが、話し合ひをするためには、話し合ひをする人たち全員に、
知性教養知識良識、そして善意
が必要です。

 それらが無いと、
①時間をつぶすだけで何の結論にも至らない、おしゃべり
②相手の考へを変へるための議論
③自分の考へを変へないための議論
のどれかにしかなりません。

 それで、民主主義の集団では、集団の規模が大きければ大きいほど、議論しても、
むしろ議論などするから、まったく収拾がつかなくなる。
 仕方ないので、最終的には、多数決でものごとを決める。

 それで解決かといふと、かつてアメリカでトランプ大統領が誕生したとき、朝日新聞は社説で、
民主主義の実現は難しい
と嘆きました。
 トランプのやうな指導者を生み出してしまった多数決は、民主主義を脅かしてゐると朝日新聞は危惧したのです。
 それで、朝日新聞は、日本では、今後、立憲主義をしっかり定着させる必要があると説きました。

 わたしのやうなネトウヨとしても、
国民投票によって天皇制を廃止するとか、
天皇の世襲をやめて、ひろく世界に公募してオーディションで天皇を決める
とかいったことが決まるのなら、民主主義には反対することになります。

 要するに、
多数決で決めていいこと/決めたはうがいいことと、
多数決で決めるには相応しくないこと/決めてはいけないこと
があるといふことです。

 オーストラリアで「最初のオーストリア人は先住民」といふことを憲法に明記することを過半数のオートストラリア人が反対したのは、そのやうな規定は、オーストラリアの既存の利権構造を崩壊させるからです。

 これを逆から見れば、国民の大多数に利益をもたらす利権に関しては、
正否を問う投票をしても揺るがないといふことです。

 正否といふより、善悪であっても同じです。
 スイスの銀行は、世界中の悪の組織(人権を抑圧し、人を殺し、人を苦しめてゐる集団や国)の資金を安全に合法的に保管できる機関ですが、国民はこれを正義の観点から改革することを国民投票によって拒否しました。

 なんでも最後は、国民投票
 それが民主主義なのかもしれません。
 日本がどういふ国であるかは国民が決めること。

 民主主義であれば正しいといふことになってゐますが、
何に関して国民投票するのかによっては、とんでもない悪を生み出したり、現在の悪を排除する機会を妨げたりすることも可能であると思ひます。

 

 


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