岸田さんを嘲笑する日本人


「twitterでひろった画像」といふのを、わたしがnoteからぬすみました。

 ポチって、日本人全員だとわたしは思ひます。

汝ら日本人のうち、アメポチならざる者は、まづ、岸田を笑へ。

とアインシュタインも言ってます。

 あれ、松下幸之助だったかな、手塚治虫?、司馬遼太郎か?、ああ、石原慎太郎だったかも。まあ、このうち誰でも、岸田さんを笑ふ人なら、大好きな人たちですよね。わたしは、こいつらカスやなと思ってますが。


 
 って、みんな、岸田さんを笑ってるやん?
 気分、いいですか?

 「岸田さん、あんたサイテーやな。もう日本、滅茶苦茶やん」とわたしも思ひます。
 参政党やれいわ新選組の演説なんかで岸田さんを揶揄した批判が出ると、軽蔑をこめた笑ひが聴衆から巻き起こります。

 わたしも日本人ですから、なんとかみんなに同調して笑はうと思ふんですが、「おれはとりあえず顔をさらしてポチをやってるんだ。だから、殺されかかったんだぞ。何もしないで、SNSの草むらに潜んで、匿名で、批判だけしてゐるお前よりはましだ」と岸田さんに言はれそうな気がして、顔が引きつってしまって・・・。


オマケ

ついでに、「汝らの中、罪なき者は・・・」で検索したら、↓の文書が出てきました。次の一節があって、今、三島由紀夫氏の作品を読んでゐる私には、興味深かったです。
 小説家・三島由紀夫のある作品といふのは、『美しい星』だと思ひます。


聖書のこの話は、全く罪のない者、心の中にやましい所のない者など一人もいない、という人間の現実を暴いたものといえるでしょう。小説家・三島由紀夫のある作品に、他人の幸福をこの世で何よりも嫌悪し、誹謗や中傷、罵詈雑言やスキャンダルが大好きだという人物が出てきます。そんな人は例外だ、と思うかもしれません。しかし、たとえば人がテレビのワイドショーを喜んで見るのは、暗にそうした欲望を満たしたいからではないでしょうか。





「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」
           ヨハネによる福音書 8章1~11節

聖学院大学大学院 アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科客員教授 鵜沼 裕子

 私の自宅の勉強机の脇に、一枚の小さな画が飾ってあります。16世紀から17世紀にかけての画家・ルーベンスが描いた、「キリストと不倫の女」という題の画です。うなだれて、幾分ふてくされたような若い女性を真ん中にして、左手に描かれたイエスに数人の男性が詰め寄り、何かを激しく言い募っている様子が描かれています。言うまでもなく、今、司会者に読んでいただいた聖書の箇所をテーマにした画であります。奨励の題は文語訳聖書によっていますが、皆さんの聖書では、7節にあるように、

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」となっています。

学者たちが、不倫の現場で捉えられた女性をイエスのもとに連れてきて、イエスに一つの問いを投げかけます。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」これは大変難しい、しかも危険な質問です。もしもイエスが「打ち殺してはならぬ」と答えれば、当時厳しく守られていたモーセの律法に背くことになります。しかし、「打ち殺せ」と答えれば、「神の赦し」を説く日頃のイエスの教えと矛盾することになります。つまり学者たちの意図は、イエスを窮地に陥れて、イエスを訴える理由をつくることにあったのです。このイエスの言葉は、そのような抜き差しならない場面で発せられたものであります。

その時イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられました。イエスは、敵対者から突き付けられた難題を見事にかわし、しかも、いわば返す刀で、問う者自身に鋭い問いを投げ返されたのであります。私は、学者たちがここで更にイエスを攻め続けずに、悄然と立ち去っていったということにも驚きを感じます。恐らくその理由は、イエスの言葉に、抵抗することの出来ない重み、心に突き刺さるような鋭い力があったからではないでしょうか。その鋭さ は、いわゆる「寸鉄人を刺す」という、離れ業のような鋭さではありません。心の深みに静かに染み通り、聞く者を自ずと深い内省へといざなっていく力であったと思います。

聖書のこの言葉に関連していつも思い出されるのは、小学生の頃のひとつの遠い記憶です。あるテストで一人の子が、隣の子の答案を盗み見たという噂が立ち、皆で先生に言いつけに行きました。するとその先生は、あなたたちもテストで答えがわからなくて困ったとき、隣の子の答案をちょっと覗きたいという衝動に駆られたことはないか、と切り返されたのです。その先生はもう亡くなられたので、キリスト者であったかどうか、今は知る由もありません。しかし、これはまさに、聖書のこの箇所を踏まえたかのような諭しではないでしょうか。私もその一人でしたが、張り切って告げ口に行った子どもたちは皆、しゅんとして言葉もありませんでした。子どもの社会でさえ誰もが持っている、自分は良い子だという偽善的な思いや、他人の密かな悪を暴こうとする陰湿な思いに冷水を浴びせ、自分自身の内面と真摯に向き合わせる力を、この先生の言葉は持っていたのであります。

ところで私は今日の奨励題を、現代語ではなく文語訳聖書で記しましたが、それは、単に現代語訳が奨励のタイトルとして長すぎたからだけではありません。実は、私が初めてこの聖書の記事に触れたのが文語訳を通してであり、その時に受けた衝撃が忘れられないものであったために、敢えて文語訳を用いました。

それは私がまだキリスト者となる前の、若い学生の頃で、聖書の知識もほとんどなかった頃のことでした。当時、若者・年配者を問わず広く読まれていた文芸評論家に、亀井勝一郎という人がおりました。どういうきっかけであったか覚えていませんが、あるとき私は、この方の講演を聞きに行きました。亀井氏はキリスト者ではなく、仏教に帰依し、特に親鸞に私淑して、親鸞についての書物も書いておられる方であります。

残念ながら講演の内容は全く覚えていないのですが、その時語られたことの中で、ひとつだけ今でも忘れられないことがあります。それは、亀井氏が聖書のこのヨハネ福音書の箇所を取り上げて、「汝らのうち罪なき者まず石をなげうて」というイエスの言葉について、これはまさに宗教の極意であり、宗教の真髄を表した言葉である、まことの宗教者にして初めて語ることの出来る、深い言葉である、と熱く語られたことでした。親鸞に傾倒しておられた亀井氏にとって、悪人こそ救いの対象である、と語った親鸞の『歎異抄』という書物の教えに通じるものがあったのかもしれません。

いずれにせよ、その時の亀井氏の熱のこもった語りが私の心の琴線に触れ、それ以来、「汝らの中罪なき者、まず石を投げうて」というこの言葉が、何かにつけて心にこだまするようになりました。一体、自分自身の考えや行為に絶対の確信をもって、人に石を投げることの出来る人がいるでしょうか。心の中に何のやましいこともない人などいるでしょうか。そして、この体験は、このようなことが語られている聖書というものと真剣に取り組んでみたい、という思いを私に抱かせたのであります。

聖書のこの話は、全く罪のない者、心の中にやましい所のない者など一人もいない、という人間の現実を暴いたものといえるでしょう。小説家・三島由紀夫のある作品に、他人の幸福をこの世で何よりも嫌悪し、誹謗や中傷、罵詈雑言やスキャンダルが大好きだという人物が出てきます。そんな人は例外だ、と思うかもしれません。しかし、たとえば人がテレビのワイドショーを喜んで見るのは、暗にそうした欲望を満たしたいからではないでしょうか。


もう20年近く前の事になりますが、私は、近親者を突然の病で亡くしたときに、暫くの間、いわゆるうつ状態になったことがありました。その時の非日常的な体験から、私はいろいろなことを学びましたが、そのひとつは、普段は理性の覆いで隠されている、心の底に渦巻くさまざまな暗い情念を垣間見たこ とでした。その中には平常心ではとても直視できないものもあり、自分は、日常は単に理性によって「良い人間」を演じているに過ぎない、ということを悟って慄然としたのでした。そしてそれこそが、パウロの言う「罪」であると悟ったのです。

私の今日の話の結論は、もう皆さんにはわかっていることと思います。ありのままの姿では、とても神と人との前に立つことができない、そのような私のために、イエスは十字架の上で私の中の罪を贖って下さったのであります。その事実への信仰に支えられてこそ、私はごく普通の人間のような顔をして、一人前の社会人として生きてくることができたのであります。「汝らの中罪なき者、まず石を投げうて」というイエスの言葉が心の底にリフレインするたびに、私は、イエスによる究極の赦しへの信仰に支えられてこそ生きていられるのだ、ということをしみじみと感じるのであります。

 2014年1月10日 聖学院大学 全学礼拝






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