シン日本語と小説

 わたしは芸術は形式だと思ってゐます。

 たとへば、踊り。
 踊りたいといふ気持ちこそ大事、その時その場の自分の真実を表現するのが踊り、さう思ふ人は前衛舞踏の方向に向かふのかもしれません。
 でも、既存の踊りをまったく習ったことがない人が、バタバタと手足を動かして頭を振り回しても、たぶん、何を訴へてゐるのか何を表現してゐるのかは伝はりにくいだらうし、もし、観てゐる人たちに「ああ、あのことか」とわかるものがあれば、踊りはジェスチャーとかパントマイムに化してゐて、踊りからは遠ざかってゐるでせう。

 ギターを見たこともない人がギターをいきなり渡されて、「君の気持ちをありのまま、気兼ねなく、そのままに、みんなに伝へてごらん」と言はれても、かなり難しい。
 けれども、音楽の天才なら、自分の奏法を編み出して、一月後には、聴く人の心を動かす演奏をするでせう。
 そして、天才の創り出した、その奏法とは、つまりは、音楽の形式です。
 浄瑠璃の清元や一中節などの各種多様な流派は、それぞれが一人の天才の改革や独創から始まってゐます。
 その天才の変革や独創を形式として弟子が学び、世代間で形式として継承された結果、現在に残る各種の浄瑠璃となってゐます。

 わたしたちは、それぞれの人生を生きて、それぞれがそれぞれの体験をして、それぞれの感情や考へを抱いてゐます。
 それらを形式の中に入れると、他人に何かしら伝はるものになります。

 一番、簡単な例は、言葉です。言葉とは形式です。音韻規則、統語構造など一分の隙もないフォルムの複合体です。この言葉を使って、
悲しい
 と書いて、それを誰かに読ませれば、日本語のわかる人には、「意味」が伝はる。

 ただ、これではあなたの悲しみ、あなたが経験した悲しみ、あなただけの悲しみは、むしろ、誰にもわからない、といふ結果を招きます。

 言葉を使った芸術では、形式である言葉が、物語といふ形式を築き、それによって、あなただけの悲しみが、多数の他者に伝はり理解されます。
 
 形式が、あなたの悲しみを、人間性の中に潜んでをり、なんらかの体験を通して誰もが感じる可能性のある悲しみとして創造されたからです。
 小説は回りくどい物語を作って、あなたの悲しみをその言葉によって造られた構造、つまりは形式の中で、人間の悲しみとして読み手に伝へることができました。

 あなたの悲しみを人間の悲しみとして読み手に伝へることができたとき、あなただけの悲しみが他人に理解されたことになります。
 なぜなら、あなたの悲しみはあなただけのものでありながら、それは決して虫の体験する悲しみでは無かったからです。

 自分の悲しみが、他人にとって虫の悲しみくらゐ、絶対に理解されないものだと思ふ人は、言葉の創造力に賭けてみるといふ気持ちにはなれないでせう。

 さういふ人は、自室で(たいていは病院の拘禁室か刑務所の独房で)膝を抱へて、独り言を呟いてゐるはずです。


 以前、書いたやうに、日本語は断絶したので、芸術の一分野としての小説は一時代を終へたとわたしは思ってゐます。

 純文学と思ってもらひ、書いてる人もさう思ふには、今ではかういふ文章を書くしかない。

ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な“なにか”じゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、ある場合にはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。
『海辺のカフカ』

 たぶん、若い世代は、こんな文章すら読むのが面倒になってゐると思ひます。若い世代でかういふ文章を書くのは、よほど自分が人と違ふ人間だと思ってもらひたくてたまらない人だらうと思ひます。
 さうでない人は、もっと改行して、短い文に、自分の思ひを伝へようとしてゐます。

 村上春樹的な純文学風の文体から解放された世代がキーボードに向かふとき、ほんたうに、誰もが自由に小説を書ける時代が来たと思ひます。

 これは小説だ、これは小説ではないと判断できたのは、伝統的な日本語があったからです。
 その頃の基準で言へば、『渋江抽斎』は小説であるが、『竜馬がいく』は小説ではない。

 これはどっちが面白いか、感動するか、人生訓があるか、書き留めておきたくなる警句が多いかなどではなく、文章のレベルです。
 楽器の演奏や歌唱なら、素人にも或る程度、どっちがホンモノかはわかるのですが、文章となると書いてあることに惑はされて、小説ではないものが小説として読まれることがよくありました。

 さういふ紛らはしいことも終はりだと思ひます。



 伝統的な日本語といふ根っこを絶たれて八十年近く、もう、今は、日本語を読めたり書けたりする人が日本にはゐません。
 
 今の日本語は、シン日本語です。
 これから、昭和も含めて「昔の日本の古典文学」が現代語訳といふ、翻訳で読まれるやうになると思ひます。
 現代語訳として書かれた文章が、シン日本語です。

 かういふ時代では、誰が書いても小説となる、と思ひます。
 人類の脳の中には数学が仕込まれてをり、それは音楽を生み出しますが、それが取っ払はれた世界を想像してみてください。
 自分の思ひを声に出したくなるのだが、音楽が無い。そんな世界です。

 その世界では、誰でも歌手になれる。
 音楽といふ形式が無いから、誰がどう叫んでも、それがその人の歌となる。
 音楽といふ形式のある世界では、どんなに心からの痛切で真摯な叫びであっても、その人が音楽の形式に沿って声を出せない人、つまり「歌の下手な人」なら、その叫びは他人にとって迷惑な騒音でしかない。

 日本語がある頃は、迷惑な作文があったが、シン日本語の今、日本人から歌と叫びを差別する耳が無くなった。

 では、世間から「あの人は小説家だ」と呼ばれる人はゐなくなるのか、といふと、さうとも限らないやうです。

 今、プロの小説家になるには、新人賞とかなんとか賞とかを取ることになってゐます。小説家は、資格の必要な職業になったやうです。

 「小説家になりたい」「小説を書きたい」といふ人たちは、何かの賞を取ろうと頑張ってるといふ人が多い。
 どうも、小説を書くといふことが、現代を自分と共に暮らしてゐる、多くの人に承認される文章を書くといふことになってゐるやうです。

 文学賞は、以前にゐた、文芸評論家といふものの代はりかもしれません。
 かつて、純文学といふものがあった時代には、文芸評論家が言ってることと自分の感想が一致すると、わたしたち文学の素人は、自分にも文学がわかると喜んできました。

 いまや編集者の鑑賞力には誰もかないません。マーケットリサーチをして売れる作品をプロデュースできる出版社の編集者たちの目利きに優るものはありません☆。
 何が文学かについて、文芸評論家にとやかく言はれなくてもよくなりました。

 だから、文芸評論家の肩書をつけた人は、その肩書を使って人生論や社会批評をしてゐます。説教屋。精神科医と同じやうな職業となったのです。

 
☆↓に添付した記事の中に、次の言葉がありました。やっぱりさうだったんだなと思ひました。

大手出版社さんは、「ヒットする(売れる)才能」を見出すプロ集団ですので、甘く見てはいけないかと思います。(その上、大きな市場もお持ちです。今だ圧倒的に有利な存在です。)


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