差別は心の中にある
今は、自分の中の差別意識とか偏見とか他者に対する悪意などを表明する機会がありません。
アホ、バカ、死ね、きちがひ、嫌ひだ、気持ちワルイ、などは禁止。
差別を撲滅することを目指して、いろんな言葉が禁じられてきました。
ホモやオカマもダメなのださうです。
わたしは、バイセクシャルでオカマですが、
ヘテロの男性、或いは女性が
「ホモやオカマって気持ちワルイ、あんなやつら死ねばいいのに」
と思ふのは、別に、いいと思ひます。
傷つかないからではありません。
目の前で言はれたら、つらいです。
傷つきます。
でも、思ふのはいい。同性愛者に対する嫌悪は男性としては、よくあることです。女性だって、心は女の・髭剃り跡の青々としたオカマのおっさんがバスタオルを巻きつけて女湯に入ってくると、ふつうにキモいと思ふ。
それでいいんだと思ひます。
個人とか関係性の問題は別です。
そのおっさんオカマとひょんなことから友達になったら、一緒に旅行して、お互ひにスッポンポンで家族風呂に入るかもしれない。
でも、そんなオカマのおっさんを友達に持った後でも、傷つく当事者がゐないところでは、やはり「オカマはキモい」と言って女友達と笑ひあってもいい。それはそれでいいのです。
友達にオカマがゐるから、偏見が無くなったといふのは、人が一番陥りやすい自己欺瞞です。
わたしが言ひたいのは、ふだん、特定の誰といふのではなく、一般的にオカマとかホモとかいふ概念に対して偏見を持ってゐても差別意識を抱いてゐても、いいといふことです。
わたしは犬が嫌ひですが、実家には犬がゐましたから、個別の犬にはとても好きになったり尊敬したりした犬もゐます。今でも、知人の犬は、たいてい好きになります。
それでも、総体としての犬、性質としての犬は、大嫌ひです。
嫌ひで嫌ひで、大嫌ひ。
嫌ひでも、いい、でしょ?
「いい」ことにしないと、ダメだとすら思ってゐます。
といふのも、「いい」としない社会とは、
差別は心の中から起きる
とか言って、人の心を、監視し支配しようとする社会だからです。
宗教がどうして、殺したはうも何人殺したのかわからなくなるほどたくさんの人を殺し、しかも、気の遠くなるほど残忍な方法で殺してきたのか?
それは、人の心の中の悪を撲滅しようとしたからです。
宗教による殺し合ひで、人がゐなくなりそうになった西洋社会では、十八世紀あたりからやっと、
言動としての悪だけを取り締まろうと決めたのです。
人の心の悪についてなんとかしようといふのは諦めたのです。
諦めきれない啓蒙家がへんな社会思想を造り出して、後の共産主義といふ新しい宗教を生んで、実数が把握できないほど数多くの死人が出たし、気絶するほど残忍な殺し方が行はれたのです。
ホモやオカマが嫌ひなのは、いけない。差別だ、偏見だといふことになったら、
ホモの話が出たら、さっそく、
「ホモなんて言葉は差別だぜ。俺はゲイの人たちに対する偏見は無いよ。友達にもゲイがゐるよ」
なんて言はなければならなくなる。
そんなことを言ってゐるうちに、
本気でさう思ってゐると思ふ男性も増えてきます。
男性なら、オカマが嫌ひでいいのです。
それが自然です。
ここでは深掘りしませんが、一言だけ言ふと、男性であることと、女々しい男性を嫌ふことはセットになってゐます。
男性として頑張ってゐる人なら、オカマに対しては、なんだかわからないけどイヤだといふ、いはば生理的嫌悪を感じて当然です。
それは、生理的、身体性の真実です。
そんな真実を感じない、
あるのに「ないことにしてしまふ」
と、人間はおかしくなります。
わたしは、今の日本で、悪を、特に差別とか偏見とかを見つけると、多くの人が悲憤慷慨するありさまを、すごく気持ちわるく、そして、おそろしい気持ちで見てゐます。
心の中でも差別してゐない
といふことを証明し、そのやうに自分自身のことも騙すためには、自分がどれほど差別や偏見に対して怒り悲しんでゐるかを他人に知ってもらふ必要があります。
宗教でやる、信仰告白、堅信礼みたいなものです。
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