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東日本大震災の備忘録

 今日は、件の震災から10年経った日なので、多くの震災関連の情報が上がっています。節目とか風化しないというよりも、自分自身の記録として残しておきたいと考えます。
 私は、その日その瞬間、三保の海の中に潜っていました。丁度、サビハゼの卵がハッチアウトするタイミングだったのでその記録をするために潜っていました。サビハゼの親が激しく動き回り、そろそろ孵化のタイミングだなぁ〜と思っていたその瞬間、普段のダイビングでは感じない律動を体感しました。小刻みに左右に振られる感じがして、辺りを見回すと泥煙が立ち上がっていました。直感的に地震だと思って、できるだけ早いスピードで浮上を試みました。水面から顔を上げると釣り人が皆、一目散に浜辺から退散しています。その光景から自分の予測が違いないことを悟り、自分もあらん限りの力で砂浜を駆け上がりました。車に乗り、一先ずダイビングショップを目指しました。お店に着くとショップスタッフは皆、テレビに釘付けになっていました。「ひ、避難しなくていぃの?」その問いかけに、「震源はここじゃないいから」とテレビに映る津波の映像を指さしました。その映像は、数年前に見たワールドトレーディングセンタービルに旅客機が突っ込む映像を彷彿させました。あの時の「う、嘘だろ、これCGだよね」というため息混じりの独言よりも現実味がありました。その数年後に、NYに行く機会があり消失した風景を見て、事実を目の当たりにして、グランドゼロに行くという願望は現地の友人の「観光地じゃないんだよ、あそこは」という言葉で実現しなかった。しかし、東北は違いました。何が正しいか分からないけど、何かしなければならない義務感がそのテレビの映像から伝わったのでした。

 3週間後に、東京の新橋で2日間のチャリティイベントを行いました。自分が所属する「ガイド会」とカメラマンの越智さんが主催する“Weblue”の共催で行ったイベントです。記憶は、ぐにゃぐにゃしていて定かではありませんが、百数十万円の現金と集まった物資を2tトラックに積んで被災地を目指しました。その時、カメラマンの鍵井さんに「この状況を記録したいから手伝って欲しい」と頼まれました。スケジュールが合わなかったため、お断りをしましたが、あの瞬間に自分が感じたパッションがしっかりとあれば、スケジュールなんてどうとでもできたのではないかと今では後悔しています。あの当時、自分には現地の海中で起こりうる全ての事象に対応できる経験もスキルも備わっていたと考えます。鍵井さんもそれを見越した上での進言だったと思います。その時の彼の期待に応えられなかったことは、今でもプロの潜水士としての自分の汚点でしかありません。

 翌年、私が現地で何かをしたいという欲求は、文部科学省の科学研究費によって可能になりました。共同研究者とともに陸前高田に入り、ボランティアダイビングを通じて、現地の復旧状況を記録しました。アテンドをお願いしたのは「三陸ボランティアダイバーズ」の代表である佐藤寛さんでした。ここには、現地でダイビング時に必要となる空気ボンベの充填ができるように、被災直後に空気を充填するコンプレッサーを送っていたので、快く引き受けていただきました。1年4ヶ月が経過していたとは言え、現地の状況は惨憺たるものでした。記録をしなければならない立場なのに、写真を撮ることができないのです。もちろん、水中の記録はしていますが、のっぺらぼうの海岸線や堆く積み上げられた瓦礫の山を、どうしても撮影することができなかったのでした。

 この研究のまとめのために最後に現地に赴いたのは2018年の1月の末でした。石巻では珍しく気温が下がり、現地に着くと吹雪いていました。中2日の潜水調査でしたが、環境としては好ましい状況では無かったと記憶しています。ただし、それ以上の極寒の環境で潜水している経験があるので「いやぁ〜寒いね」で済ませられる程度でした。以前見た景色から6年が経過していました。海岸線には、息が絶え絶えになるほどの高さまで防波堤が建設されて、海を見るにはそのコンクリートの建造物を登らなければなりませんでした。
登り切って海を見下ろして、ため息だったか息切れだった分からない吐息と共に「なんの意味があんのさ」って呟いたのを今でも覚えています。

 今の状況にも似たようなことが感じられますが、それまでの価値観をひっくり返すようなことはこれからも起きるでしょう。その時に、どんな判断をして、どのように対処するかは個人の問題だけで片付けられません。大きな力によって決められてしまうことがあるのは、これまでもこれからも覚悟をするべきだと考えます。最後の選択肢で、選ぶ際に自分は何を守るためにその選択をしたのかが明確であれば後悔はないと思います。

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