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『自我の起源|真木悠介』に関する動画のテキスト版


こんにちは。哲学チャンネルです。
例によってメインチャンネルでアップした動画のテキスト版をお届けします。動画と合わせてお楽しみください。宜しくお願いいたします。

動画はこちら⇩



こんにちは。哲学チャンネルです。

今回は『真木悠介|自我の起源』を題材に、自我や個体の定義、私たちの存在理由について考えてみたいと思います。

少し長くなりますが、ぜひ最後までご視聴ください。それでは本編にまいります。


『自我の起源』の著者は昨年亡くなった東大名誉教授の見田宗介先生です。

父親が元愛知大学教授でヘーゲル研究者、母親は東京芸術大学のピアノ科助教授という学者家系に生まれた見田先生は、小学生の頃にはすでに、父親から渡されたヘーゲルの『論理学(Enzyklopädie)』を愛読していたそうです。

裕福な家庭に生まれた見田先生ですが6歳の頃に母親と死別、父親はナチス批判によって投獄され、しばらく失業状態が続くなどの不幸が重なり、幼少期には貧困な生活を送っていたと残っています。

その後、1960年に東京大学文学部社会学科を卒業、1967年東京大学教養学部助教授、1982年東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授と順調に研究者のキャリアを積み上げていきます。

特に、彼の主宰するゼミは常に大人気で、この「見田ゼミ」からは宮台真司や若林 幹夫、小熊 英二、江原由美子など、多くの研究者が輩出されています。

そんな見田先生が真木悠介名義で1993年に出版したのが『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学』です。

この本の目的は「利己/利他という古来からの問題設定の地平自体を解体し、われわれの<自己>感覚の準拠をなしている『個体』という現象の起源と対立の機制とを明るみに出してしまうこと」だとされています *1

『自我の起源』ではリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子論』が批判的に再解釈されます。

そこで行われる解釈は「利己的/利他的」または「エゴイズム」に対して私たちが抱える固定観念にコペルニクス的転回をもたらすものです。

そしてその中で「自分とは何か」「自我とは何か」という深遠な問題への示唆的な回答が与えられます。

著者の見田先生が共同体主義的な思想をお持ちの方なので、結論が共同体重視のベクトルを持つことは否めないのですが、自分・社会を考える上で、とても重要な思考スキームを提供してくれる書籍であることは間違いありません。

少々難しい内容ですが、それぞれのトピックについてなるべくわかりやすく解説したいと思います。



・「利己」と「利他」

「利己」とは、自分の利益だけを考えること
「利他」とは、自分の利益よりも他者の利益を優先すること

一般的に「利己/利他」はそのように理解されます。

しかし、これはとても曖昧な理解だと言えます。そもそも「自分の利益だけを考える」というときの「利益」についての定義がはっきりしていません。『自我の起源』ではまず「利益」の定義をはっきりさせることが試みられます。

動物学的に言えば「利益」とは繁殖成功のことです。動物は自身の、または自身が属する種の繁殖成功を第一に考えるはずですから、自ずとその行動は繁殖成功のためのもの、つまりその意味で「利己的な行為」になります。

繁殖成功のための行為を優先しない個体。言い換えると利他的な行為を優先する個体がいた場合、その個体が再生産される可能性は少ないと言え、進化論的に考えると、そのような個体は淘汰されるはずです。

しかし、現在存続する種の中には一見利他的な行為を行う個体が少なくありません。これはどう理解できるのでしょうか。

動物には他者を思いやる心があり、それが利他的な行為を生んでいると理解して良いのでしょうか。

『自我の起源』では、個体としての利他的行為は遺伝子の視点から見ると利己的行為として還元できると主張されます。

例えば、アリやミツバチには「子供よりも姉妹に献身する」という行為が見られます。アリやミツバチという個体に注目して考えると、自分のコピーである子供に献身するのが利己的行為であり、姉妹に献身するのは利他的行為であると言えます。

しかし、これを遺伝子の観点から捉えると、その印象が逆転します。

アリやミツバチは膜翅目(まくしもく)というグループに属する昆虫です。膜翅目には単・二倍数性という特殊な遺伝形式があり、膜翅目のメスは受精卵から生まれ、父と母から1組ずつ、2種の染色体を受け継ぎます。しかし膜翅目のオスは未受精卵から生まれるため母の染色体しか持ちません。

これを前提に考えると、膜翅目のメスの子供は親の1/2にあたる遺伝子が受け継がれているのに比べて、膜翅目のメスの姉妹どうしは3/4の遺伝子を共有していることがわかります。つまり膜翅目の姉妹は「異常に血縁度が高い」*2

ですから、膜翅目のメスは子供よりも姉妹に献身した方が自分を構成する遺伝子の多くを残せることになるのです。遺伝子の観点から捉えると、アリやミツバチの利他的に見える行為は十分に利己的なものだと解釈できるわけです。

動物が利他的行為をすること。これは動物学、長年のアポリアでした。

『自我の起源』では、動物における行動を「幸福」「繁殖」「生存」のような観点で考えると、それを統一して理解することはできないと主張されます。

あくまでも彼らは遺伝子の保存というベクトルで行為しており、その観点でしか行為を理解することはできないというのですね。

もちろん、アリやミツバチが「そう考えて」行動するのではありません。そこには個体が自身の操縦桿を握って意思決定しているイメージではなく、遺伝子が個体を乗り物として操っているイメージがあります *3

そして、このイメージを徹底化したのがドーキンスの『利己的な遺伝子』です。

『自我の起源』では、個体としての利他的行為は、遺伝子の視点から見ると利己的行為として還元できると主張されます。

『自我の起源』を理解する上で、まずはこの発想の転換を押さえておくことが重要です。

・生成子(gene)

『自我の起源』においては「gene」を「生成子」と訳します。一般に「gene」は「遺伝子」と訳されますが、これは個体中心的な翻訳です。

「遺伝子」という語には「個体が次の世代に形質を伝えるためのメディア」という意味が含まれています。しかし、先に見たように『自我の起源』においては個体を絶対的な主人公とは見做しません。むしろ主人公は「gene」であり、個体は「gene」の運び手にすぎないのです。

実際、個体に含まれる「gene」の90%は、その個体の形質には関係のないものだとされています。つまり個体の再生産には、個体に含まれている「gene」の10%しか関係していないのです。これを「個体が次の世代に形質を伝えるためのメディア」と表現するのはおかしいと言えるのかもしれません

「geneのために個体がある」

この見方を前提に考えると「gene」には個体に先立つ自立性があるわけで、その意味で「生成子」という訳の方が妥当であると考えられるのです *4


・個体

約34億年前、最初の生命である微生物が生まれました。約10億年前、原核生物は真核生物へと進化します。そして、約7億年前に「多細胞個体システム」が誕生しました。

アメリカの生物学者であるリン・マーギュリスは著書『細胞の共生進化』の中で「真核細胞のいくつかは原核細胞の共生体であった」と述べました。

地球で初めての生物は、深海底の熱水噴出孔のような場所で誕生したとされます。その姿は1つの細胞しか持たない単純な微生物でした。

彼ら(?)は非生物的に作られた有機物を食物としてエネルギーを得ていました。しかし、その食糧源はやがて食べ尽くされてしまいます。
生物は炭素とエネルギーを自分で作り出す方法を模索します。
そうして、太陽光を利用して大気中の炭酸ガスを有機化合物に変える方法、つまり光合成が発明されます。光合成をするバクテリアは、最初硫化水素などを用いて硫黄を排出していましたが、やがて地球上最大の資源である水を利用するタイプが現れます。

このバクテリアは光と水と炭酸ガスさえあれば繁殖するため、圧倒的な成功を収め、地球の地表の大半を覆いました。

しかし、その大成功はバクテリアにとっては強力な毒である酸素濃度を0.0001%から21%にまで押し上げてしまいます。この「地球史上最大の公害」によって多くの生物が死滅するわけですが、そんな中、ついにこの毒を逆利用して酸素からエネルギーを作り出す方法、つまり「呼吸」機構を持つバクテリアが現れます。
酸素公害を恐れる微生物は「呼吸」機構を持つバクテリアとの共生を求め
ついには自身に「呼吸」機構を持つバクテリアを取り込む微生物も現れ始めます。このようにして、他の生物中に取り込まれた呼吸生物がミトコンドリアです。

以上のように、「生成子」は共生の関係の中で、お互いに調和し、融合し、複合的な生命を作っていきます。そして、さらに複合的な融合を通して原始的な「多細胞個体システム」が生まれました。ですから、私たちの体も、ミトコンドリアをはじめとした様々な原始生命の共生体なのです。

それは「わたし」という確固たる個体があるイメージではなく、「わたし」というフィールド、または社会という存在の中に原始生命の共同体が蠢いているような、そんな解釈です。

そういう意味で、例えばハチとクローバーに見られる共生関係は、原初の微生物における共生関係と本質的に同じものと考えられます。クローバーは花をつけ、その蜜をハチが栄養にします。ハチが「食事」をすることで、クローバーの花粉が体につきそれをハチがまた別の場所に運びます。そうしてハチとクローバーは共生しているわけですが、この共生関係という領域自体が一つのシステムであり、これは「わたし」という個体内部で行われていることと本質的には同じものだと考えられるわけです。

このようにして「生成子」は個体を乗り物にして、気の遠くなるような進化の旅を続けてきました。

「多細胞個体システム」はアメーバなどとは違い自己をそのまま複製することができません。必ず何らかの転生システムを用いて次世代へと「生成子」を送っていきます。その転生システムにおいては必ず「単細胞の『生成子』という細い糸」を通して次世代へと繋がるわけですが、これは「多細胞個体システム」のボトルネックと言えるでしょう。

だからこそ「多細胞個体システム」には性と死があります。性とは「二つ以上の源から『生成子️』が組み変わること」であり、それは自身の複製ではなく、擬似的な「生成子」の輸送手段であると考えられます。そして「生成子」の共生体である個体はいずれ崩壊し、死にます。これらはアメーバーのような単細胞生物には見られない特性です。「死」は生物全体の宿命ではなく「多細胞個体システム」という一種の共生体の宿命なのですね。

以上のように、「生成子」は個体の性を通して転生、再身体化して、永遠の旅を続けます。私たちの身体はその旅における乗り物に過ぎないのかもしれません。


・テレオノミーな主体性

では、人間はどこまで行っても「生成子」の乗り物なのでしょうか。
私たちが生きている意味はあくまでも「生成子」のためなのでしょうか。

『自我の起源』では、そうではないと主張されます *5

ドーキンスは「淘汰の目的因は遺伝子にある」と言いました。

テレオノミー(teleonomy)という言葉があります。これは「何のために」という問いに対する答えという意味を持つ語です。

テレオノミーな主体は遺伝子だというのがドーキンスの説です。
人間はあくまでも遺伝子の乗り物でしかなく、人間が存在する意味に先立って「遺伝子が存続すること」という絶対的な目的が存在している。

そう考えると人間をはじめとする遺伝子の乗り物である個体はエージェント的な主体であると言えます。エージェントを辞書で引くと、こう説明されています。「人から委任あるいは授権された代理権限の範囲内で、本人に代わって取引、契約など法律行為をなす者」 つまり、なんらかの高次な目的があり、その目的を遂行するために限定された自由を与えられた存在。個体にはそのような「弱い主体性」があると考えられるのです。

例えば、プロスポーツ選手と代理人の関係を考えてみましょう。選手には「より良い条件のチームに入りたい」という目的があります。代理人はその目的を遂行するために、様々な選択肢を好きに選ぶ自由があります。このとき代理人は「より良い条件のチームに入る」という目的を共有していますが、それはあくまでも選手の目的であり、代理人の主体的な目的ではありません。代理人の目的はあくまでも「選手の要望を満たすこと」であり、代理人が代理人である以上、選手の目的を否定することはできません。このとき、代理人はエージェント的な主体であり、テレオノミー的な主体であるとは言えないのです。

多くの動物においてはこの関係が当てはまるかもしれません。動物には「生成子の繁栄」という大目的が与えられていて、彼らはある制限のもと、自由に振る舞うことができるものの、本質的に「生成子の繁栄」という目的を否定することができないのです。

しかし、人間はちょっと違います。人間は繁殖以外の方法で自分自身の幸福を追求することができますし繁殖以外の方法で自分以外の他者の幸福を追求することができます。『自我の起源』では前者を自己目的化、後者を脱自己目的化と表現します。

人間はいつからか、テレオノミーな主体である「生成子」の目的意識を振り切り、自身をテレオノミーな主体として再設定できるようになりました *6

『自我の起源』では、生物がテレオノミーな主体性を獲得し、自己を目的化できるようになってはじめて「自己感覚」が発達し、そこに「自我」が生まれると主張されます。


・自我

イギリスの哲学者であるカール・ポパーは、オーストラリアの神経生理学者であるジョン・C・エックルスとの共著『自我とその脳』にて「自我の起源は大脳にある」と言いました。

しかし、これは自我の説明をなしていません。

重要なのは自我が発生する場所の仮定ではなく、自我が発生するその仕組みです。共同著者のエックルスはポパーが出した結論に対して異議を唱えますが、彼が最後に至った結論は「自我は神(的なもの)が創造した」でした。

「自我」はとても主観的な質感なので、それを客観に還元することが非常に難しい。「どうやって自我が生まれるか」この難問にはさまざまな研究者がそれぞれの主張を行います。

例えば『精神の起源について』の著者であるラムズデンとウィルソンは「遺伝子と文化の共依存関係における進化が自我を育んだ」と主張しました。

また社会学者のC.H.クーリーは「鏡映的自己」という概念を提唱します。「鏡映的自己」とは文字通り、他者を介して生まれる自己のことを指します。他者の自分に対する言動・態度から「自分がどう思われているか」を
推察・受容することで特定の自己が獲得されていくという主張ですね。

アメリカの社会心理学者であるG・H・ミードは「I/me理論」という主張を展開し、自我の主体性を示す「主我」と自我の社会性を示す「客我」の相互作用によって形成される動的な過程が「自我」であると述べました。

また、オーストリアの動物行動学者であるコンラッド・ローレンツは「自我の起源は攻撃性の抑制的選択である」と言います。つまり、ある個体に協力すべき個体とそうではない個体を識別する必要性が生まれたことに自我の起源があるとしたのです。

その他にもさまざまな主張がありますが *7ほとんどの主張において前提とされているのが「個体の固有性への相互関心と識別能力」です。

つまり自我が発生するための最低条件として「個体認識的な社会」言い換えると「それぞれの個体を別個の個体として認識する必要がある社会」が必要だと考えられるのです。そのような環境がなければ自我は発生しないと言えるのかもしれません。


・延長された表現型

生成子は個体それ自体を超えて他の物体や個体へと延長され、表現されます。

例えばビーバーは、集団で川を堰き止めてダムを作り、その中心に巣を構えます。このダムと巣自体をビーバーの持つ生成子の表現型だと解釈することが可能ですよね。

また、ハチとクローバーの関係性は、その関係性自体がハチが持つ・クローバーが持つ生成子の表現型と解釈されます。

生成子の延長された表現型には重要な定理があります。

「ある動物の行動は、それらの遺伝子がその行動を演じている当の動物の体の中にたまたまあってもなくても、その行動のための遺伝子の生存を最大化する傾向を持つ」*8

ビーバーが安全な巣を作ることによって、ビーバーの生成子が再生産される確率が上がります。

ハチとクローバーの関係が良好・円滑になればなるほど、ハチとクローバーの生成子が再生産される確率が上がります。

このとき(「巣」は当然として)クローバーはハチの形質を表現する
「生成子」を持っていないわけですが、それでもハチが持つ「生成子」と共生していることになるのです。

私たちはハチとクローバーを全く違う個体として認識しますが、こと「生成子」の観点からそれを眺めると、それは共生関係にある一種の統合された個体であると捉えることもできるわけです。

つまり「生成子が自分のサライ*9である個体だけでなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている」のです。

そういう意味で考えると、私たちの身体もまた他者のために作られていると考えられます。

ここで言う「他者」とは人間に限定されたものではありません。「生成子」の視点に立てば、世界は「生成子」の共生によって成り立っており、そこにそれぞれの個体という感覚はなく、共生関係全てを含めた一つの大きな「個」があると言ってしまうこともできるかもしれません。

私たちはその「巨大な個」のなかで様々な共生関係の渦を生きています。その渦の細かいパターンを、それぞれ「個」と認識しているのです。

そしてそれぞれの個体は、周りと良好な共生関係を結ぶことで自身の中に含まれる「生成子」を再生産していきます。

例えばコレラやペストといったバクテリア達は、その敵対的な共生関係によって、宿主からの対抗戦略を誘発し、ジェノサイドの危機に瀕しています。

逆説的に考えると「愛される個体」を作り上げる「生成子」は再生産される確率が高く、勝ち残る傾向があると言えるわけですね。

・テレオノミーの解放系

これまでに見てきたように、「生成子」の乗り物である個体だったはずの人間は、ある段階からテレオノミー的な主体性を獲得しました。

それは自分という個体の幸福を追求する自己目的化と、他者という個体の幸福を追求する脱自己目的化として現れます。いわば人間は、自己の中に閉じた内部テレオノミーを保持しているのです。

しかし、内部テレオノミー的な主体性を持つ人間も、外部の生成へと開かれた構造を持っています。

個体は基本的に外部のテレオノミーのために作られています。つまり人間は、内部テレオノミーと外部テレオノミーの渦の中で生きていると考えられるのです。だからこそ、人間はエゴイスティックな内部テレオノミーに固執しません。

一般的に「エゴイズム」は「利己的な行為」と理解されます。人間においての「自己の幸福を追求する」という自己目的化は、その意味では「エゴイズム」に分類されるでしょう。また「他者の幸福を追求する」という脱自己目的化は「利他的な行為」に分類されるのかもしれません。

しかし、「生成子」という観点からこれを捉えると、「自己の幸福を追求する」という自己目的化は「生成子」におけるエゴイズムを超越した状態であり「他者の幸福を追求する」という脱自己目的化に関しても単純なエゴイズムを超えた何かだと言うことができるのです。

これを『自我の起源』ではこのように表現します。

「<個体>は生成子の再生成の装置として決定されてはいないし
<個体>としての束の間の形態を自己目的化するように決定されてもいない」*10


まとめ

『自我の起源』は私たちにいくつかの訓示を示しているように思います。

一つはエゴイズムに対する解釈です。
『自我の起源』ではエゴイズムをこう表現します。「共同体のエゴイズムが、共同体を超えようとするものをエゴイズムと名付けるのだ」*11 要は、ある共同体における常識(エゴイズム)があったとき、その常識を外れるような事柄をエゴイズム(自分勝手)と呼ぶのですね。その意味でエゴイズムは共同体の秩序を乱すものですから、一般的には悪いものとして認識されます。

しかし、これまでに見てきたように人間が発揮するエゴイズム(自己目的化や脱自己目的化)は、生成子が主体となった共同体を超越するものです。

生成子というテレオノミー的な主体からすれば、人間のエゴイズムは「秩序を乱すもの」なわけですが、それは他の生物にはない、人間が獲得した特殊な性質であり、ある意味では尊ぶべきものなのかもしれません。

二つ目は自由に対する解釈です。

人間は「生成子の再生産」という外的なテレオノミーと「自己目的化」「脱自己目的化」という内的なテレオノミーを等しく保持する生き物です。言い換えると、人間は「生成子」の目的である「再生産」に賛同することもできるし、それを拒否することもできる。

これはまさに「自由」を表しているのではないでしょうか。

仮に、何の制約も与えられていない存在があるとしたならば、その存在は「自由」であると言えるかもしれません。しかしその「自由」はとても空虚なもののように思います。

人間は「生成子の再生産」という外的なテレオノミーに制約されています。しかし、その制約を振り切って内的なテレオノミーに従うこともできます。もっと言えば、内的なテレオノミーを選択することができるのに制約側、つまり外的なテレオノミーを能動的に選ぶこともできるのです。

『自我の起源』では、個体が内的なテレオノミーを発揮しながらも外的なテレオノミーによる抗いようのない欲望を保持する様を「自己裂開的な構造」と表現します。

そしてこの「自己裂開的な構造」こそ、人間の自由を表すものであり、人間がエゴイズムという「貧相な凝固」*12 に固執してしまうことがない最大の理由であると主張されます。

もしかしたら、この「自己裂開的な構造」を「自我」と呼べるのかもしれません。


三つ目は人間の存在理由についてです。

人間が利己的な遺伝子の乗り物であるだけなら、私たちの存在理由は遺伝子の橋渡しでしかなくなってしまいます。

しかし先ほど触れたとおり、私たちにはそれを拒否する自由があり、またそれに賛同する自由があります。そしてそれを実現しているのが「自我」なのです。

仏教に諸行無常という言葉があります。これは「世のすべてのものは移り変わり、生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはない」という意味を持つ語です。

人間は、生成子の永遠にも思える旅におけるたった一瞬の「偏り」でしかないのかもしれません。私たちは、個体を特有の個体として認識していますが、生成子の視点から見ると、それらは巨大な共生体の一部であり、常に移ろう変化のある一場面でしかないと考えられます。

しかし、その一場面において、人間は自我というものを獲得しました。自我は個体に内的なテレオノミーという選択肢を与えます。人間はこれを以て選択の自由を手に入れることができたのです。このこと自体が人間の存在理由と考えられないでしょうか。

私の大好きな「天」という漫画の中で天才賭博師の「アカギ」がまさにドーキンスの『利己的な遺伝子』を前提にこんなことを言っています。

「少し前に取り沙汰された話で、こんな話があったんだが、覚えているかな?いわく、人間はDNAの乗り物に過ぎないって話だ。
生命の主役はDNAで、人間はそれにただ操られているに過ぎないって話。
なるほど確かに、生命誕生以来というような大きな流れで考えたらそんなふうに考えることもあるいはできるかもしれない。だけど、まさにこれっぽっち、ジャスト生涯。その長い長い生命の時間から考えたら、瞬きみたいな、そんな人間の生涯ということでいうなら、話は別だ。
そうなりゃまるで逆転する。少なくとも感覚的には。
つまり、DNAとやらも含めてのこの体、この命が俺の乗り物だ。
主役はあくまでも俺、命は俺を運ぶ者。
俺が俺を全うするために、命がある。」

まさにこのセリフは、人間の自由と存在理由についての核心を突いたものだと思いますし『自我の起源』でなされる主張との共鳴を感じます。

また、ハイデガーは、我々を取り囲むこの逃避不可能な時間や空間を「状況」(Da)と呼び、人間はこの状況(Da)の中に不可避的に存在する現存在(Dasein)だと言いました。そして彼は、人間がこのように特定の状況(Da)に意味もなく不可避的に投げ込まれた状態を被投性(Geworfenheit)と呼びます。

特に実存主義において、人間は「不合理」な存在として描かれます。『自我の起源』の主張においてもそれは同じように解釈できるでしょう。人間は生成子の永遠の旅というテレオノミーに紛れた偶然的な存在なのです。そしてその存在は「状況」に制約されています。

しかし、人間はその状況を超越して、そこに意味を見出すことができます。それこそが人間の自我なのであり、自由だと考えられるわけです。

『自我の起源』はエゴイズムや自我といった概念を客観視するための重要なヒントを提示しているように思います。私たちは、生成子に紐づいた外的なテレオノミーとそれを超越するような内的なテレオノミーの間で生きています。

その両方に、等しく価値を置いて眺めることが、真の意味での「エゴ」からの脱却につながるような気がしてなりません。

以上です。




注釈と引用

*1 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P6

*2『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P16

*3 わかりやすいように「遺伝子が個体を乗り物として操っている」と表現しましたが、遺伝子に意志があるわけではないし、遺伝子が利己的であるといっているわけでもありません。実際『自我の起源』ではドーキンスの利己的遺伝子論にまつわる「遺伝子が利己的だ」という勘違いについて厳しく批判しています。遺伝子は意図して利己的に振る舞うのではなく、もっと言えば、遺伝子は自らを存続させたいと願っているわけでもなく、遺伝子を再生産する機能を持つ個体が「結果として」この地上で増殖することにより、利己的な振る舞いをしているように見えているだけです。

*4 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P44
ー「遺伝子」とはgeneに対して、個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である。つまり個体の何かの形質を次世代の個体に遺し伝える「ための」メディアという考え方だ。実際にごく最近まで、自明のこととしてこのように考えられてきた。もちろん<個人全体主義>のドグマは日本の個有の文化ではない。しかし西欧のgeneは幸いに「生成するもの」という中立的な原意を保存している。命名者ヨハンセンは、当時まだ正体不明のこの因子に対して、余計な意味の倍音が生じないように、意図的にこの「裸の接尾語」を選んだと記しているという。現在の視点に立つなら、それはこの後の直訳である「生成子」とでも呼ぶべきものである。この生成子の内の一部は、真核細胞→多細胞「個体」の生成された後にはこの個体の中に集住し、そのある部分はやがてこの共同体の外部では自立して生活する力を失う。またこの定住民の一部は、個体のなんらかの形態や行動性向を代々の個体にくりかえし再現せしめる制御力をもつ。つまり「遺伝子」として機能する、90人の乗客に対する10人の乗務員の如きものである。

*5 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P78
ー<個体>という生の形態が本来はドーキンスのみるとおり、生成子の再生産のメディアとして派生した現象であることは正しいだろう。けれども進化のどの時点でか、みずから創造主にたいするこの<被造物>の叛逆は起こったのである。つまり「個体」は、このかりそめの形態自体を自己目的化する主体として自立する。

*6 本書ではテレオノミーな主体としての個体が発生する条件を
1、哺乳
2、保育期間の延長
3、群居と社会生
だとして定義しています。

*7 『自我の起源』では他に養老孟司先生の意識論・ピアジェ・メルロ=ポンティやラカンの発達心理学的な考察・サルトルやボーヴォワールの対他存在論・エリクソンのアイデンティティ論・レインや木村敏の対他関係論・自我の精神病理学・フーコーの主体形成論などが挙げられています。

*8 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P133

*9 ペルシャ語で宿や家を意味する語。今回の表現においてはキャラバンの一期の宿という意味がしっくりきます。

*10 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P153

*11 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P190 補論2

*12 『自我の起源- 愛とエゴイズムの動物社会学|真木悠介』P156



参考文献

自我の起原: 愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

天―天和通りの快男児 (18)

ブッダのことば: スッタニパータ

利己的な遺伝子 40周年記念版

細胞の共生進化 上―初期の地球上における生命とその環境

精神の起源について

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