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「セックスはつねにすでにジェンダーである」の解釈【ジェンダー・トラブル|ジュディス・バトラー】


こんにちは。哲学チャンネルです。

4月の頭ぐらいにYouTubeにて「フェミニズムとジェンダートラブル」と題して、ジュディス・バトラーの【ジェンダー・トラブル】を下敷きに、フェミニズムの歴史や考え方などについてまとめたシリーズを公開しようと思っています。

このシリーズは【ジェンダー・トラブル】単体の解説というよりも、フェミニズム全体の歴史を振り返って【ジェンダー・トラブル】が当時のフェミニズムにもたらした影響なんかを考えていく構成になっています。

というのもですね。
最初は【ジェンダー・トラブル】をそのままダイレクトに解説するシリーズを作ろうと思ったのですけど、どうもうまくいかなかったんです。
理由はそう

【ジェンダー・トラブル】が難しすぎるから!!

ってなわけで、ある種の逃げとして「フェミニズムとジェンダートラブル」というシリーズを作成いたしました。しかし、結果的にわりと良い動画ができたと思っています。どうぞ楽しみにお待ちください。

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さて。

【ジェンダー・トラブル】だけではなく、哲学の世界にはそのテキストを読むことすら難しい書籍が数多くあります。ちゃんと日本語で書いてあるにもかかわらず、それでも何を言っているのかわからないって不思議な感じがしますが、そういうことばかりに出会うのが哲学です。だから面白いんですけど。

で、哲学の解説を行うにあたって私はいつも「この難しいという感覚を薄めすぎてはいけない」と考えています。哲学者はなにも自ら好んで難しい表現をしているのではありません。(一部「流石にこれはわざとだろ」というものもありますが・・・)厳密性を追求したり、定義をしっかりと守ったりするとどうしても表現が難しくなっていってしまう。そして、哲学が扱うトピックはそのような表現でないと正確に描写することができないのです。
この辺りについては過去に似たようなことを書いたので、それもご参照ください。

つまり、難しい内容を簡単に表せたとき、それは確かに元の主張の一部を端的に表しているものの、元の主張を丸ごと説明していることには決してならないのです。

だから私は哲学の難しさをなるべく損なわない形で、それでいて元の主張よりも少しだけわかりやすい解説をすることを心がけています。それによって元の思想に興味を持ったりして、原著などを手に取っていただければ儲け物です。たまにそんなコメントをいただきますが、控えめに言って絶頂してしまいます。

ただ、今回はそのポリシーを少しだけ曲げて「出来るだけわかりやすく」という目的でバトラーの思想の一部を解説したいと思います。
ですから、この記事だけ読んで何かわかったとしても、それはバトラーの主張のほんの一部でしかありません。できれば【ジェンダー・トラブル】を読んで欲しいし、それが難しいなら4月頭に公開する「フェミニズムとジェンダートラブル」シリーズをご覧になってください。


前置きが長くなりましたが、今回扱いたいのはバトラーにおける

「セックスはつねにすでにジェンダーである」

という主張についてです。

この主張がなんとなくわかるような説明をしたいと思っていますので、どうぞ最後までお付き合いください。


本題に入る前にセックス/ジェンダー二分法について復習しましょう。


「セックス」とは男女性を分け隔てる先天的な特徴のことです。

男性器が付いている。
子宮がある。
乳房がある。

のように、生まれた瞬間から「すでにそこにある」男女の特徴。これを「セックス」と表現します。生物学的・生理的特徴とも言えますね。


「ジェンダー」とは男女性を分け隔てる後天的な特徴のことです。

男らしい。
女らしい。

のように、生きていく過程で「付け加えられる」男女の特徴。これを「ジェンダー」と表現します。文化的・社会的特徴とも言えますね。


従来、セックス/ジェンダー二分法は以下のような前提を内包していました。

「セックスは不変であり、ジェンダーは可変である」
「フェミニズムの問題は全てジェンダーの側にある」

フェミニスト理論家としても有名なシモーヌ・ド・ボーヴォワールは著書【第二の性】で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と述べました。

これはまさに「私たちが苦しめられている『女らしさ』は後天的に(ジェンダーとして)植え付けられたものである、だからそれを強制する文化を変えていかなければならない」という主張にほかなりません。

普通に考えると、当然のことのような気がしますよね。
「男らしくあれ!」とか「女らしくあれ!」という社会からの強制は、人間の権利を制限するような命令な気がするし、一方で生物学的な男女の性は変えることのできないことのように思えます。

しかし、バトラーはこれに対して

「セックスはつねにすでにジェンダーである」

と言うんですよね。

文字通りに解釈すると「セックス」というものは、いかなるときも「ジェンダー」に含まれるということを言っているように読めます。
要は セックス ⊂ ジェンダー という関係が成り立っていると。

しかし、セックスがジェンダーの部分集合であるならば、それは文化的に作られたものであるということになってしまいます。はて?先天的・生物学的な特徴が文化的に作られるとはどういうことなんでしょう?

これがバトラーの主張の中でもとりわけ難しい内容の一つです。
この主張を理解するためには、彼女の思想だけではなくて、フーコーやフロイトやラカンなどの思想を前提しなければなりません。流石にそれはしんどすぎるので、ちょっと違った迂回ルートを使いましょう。

少しだけ思考実験にお付き合いください。


ちょっと前に以下のようなニュースがありました。

「犯罪者と同じにしないで」“トランス女性”投稿が物議に…銭湯やトイレはどう対応すべき? 当事者に聞く(Yahoo!ニュース)

女優の橋本愛さんが「相手がどんな心の性であっても、会話してコミュニケーションを取れるわけでもない公共の施設で、身体が男性の方に入って来られたら、とても警戒してしまうし、それだけで恐怖心を抱いてしまうと思います」と発言し、入浴施設などにおける「男女区分」は身体的な性別(つまりセックス)で区分すべきと主張したのに対し、方方から反発と擁護の意見が集まった。というものです。

あなたはこれについてどう思いますか?

確かに、その人の心の中を外側から計り知ることはできません。そんな状態で身体的性別が違う人が入浴施設に入ってきたら、少なくともびっくりはしてしまいますよね。それに対して「気にすんな」という方が暴論な気がします。

しかし同時に、トランスジェンダーの方の立場から考えると「じゃあどうすれば良いんだ」という話にもなってしまいます。例えば体は男性で心が女性な人がいたとして、その人は男女どちらのお風呂に入れば良いのでしょうか?女湯に入ったら驚かれるし(だけならまだ良い方です)男湯に入るということは、女性が男湯に入るのと同じ経験をすることになる。

仮に『入浴施設などにおける「男女区分」は身体的な性別(つまりセックス)で区分すべき』とするならば、それはトランスジェンダーに

・異性が入っているお風呂に我慢して入る
・そもそも特殊な人間なのだから入浴施設を利用しないようにする
・高額な医療費を払い、身体的性を精神的性に一致させてから利用する

のどれかを強要することになります。それは果たして正しいことなのでしょうか。

とはいえ、マジョリティの立場から見ると、身体的異性が共有の入浴施設に入ってくることが嫌に感じるのも事実です。じゃあそれぞれのインターセクショナリティに対応した区分(例えば男/男、男/女、女/男、女/女)を作れば良いかというと、それも現実的ではありません。

こう考えていくと、真っ当な答えなんて出せないような気さえしてきます。だからと言って多数決で方針を決めたらマイノリティは常に抑圧されてしまう結果になる。うーん。非常に難しい問題です。


ではここで「男/女」という題材を「白人/黒人」に入れ替えて思考実験をしてみましょう。(当然ですが、差別を助長するような意図はございません。)

白人の入る公共入浴施設に黒人は入ってはいけない。という決まりがあったとして、そこに黒人が入ってきたという事件があった。それに対して「黒人が急にお風呂に入ってくると流石にびっくりする、白人と黒人の入浴施設は明確に区別すべきでは?」と発言した人がいたとしたらどうでしょうか?橋本愛さんの件の比ではないほど炎上すること間違いなしですね。

先ほどと同じ文脈で考えると、仮に『入浴施設などにおける「白人/黒人区分」は身体的な特徴(つまり人種)で区分すべき』とするならば、それは黒人に

・黙って黒人専用のお風呂にのみ入る
・そもそも特殊な人間なのだから入浴施設を利用しないようにする
・高額な医療費を払い、身体的性を白人に一致させてから利用する

のどれかを強要することになります。それは果たして正しいことなのでしょうか。という話になります。

こんなの、どこからどうみてもおかしいですよね。


では、二つの話において、何が違うのでしょうか。なぜ後者を「それはどこからどうみてもおかしい」と感じるのでしょうか。


おそらくそこにはこんな印象があるのではないでしょうか。

人種によって人間を区別してはいけない。それはただ単にイメージで形作られた差別だからだ。しかし男女の区別はした方が良い。なぜならば男女性の違いはイメージで形作られた差別ではなく、絶対的な「差異」であるからだ。

つまり「白人と黒人は人間という尺度において違わない」けど「男と女は決定的に違う」とするわけですね。

確かに、この感覚は分かりすぎるほどわかります。とても自然な感覚だと言ってもおかしくないと思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。バトラーが言いたいのはそこなのです。

今、私たちは、黒人差別が「文化的に形作られた」ものだと認識できています。だからこそ、白人と黒人(その他有色人種)にはそれぞれの特徴はあるけれども、それが人間種としての優劣や差別を表すものではないと考えるのです。
しかし、黒人差別がまだ激しかった一昔前に、この感覚は通用したでしょうか。これは想像の範疇を超えませんが、当時の白人たちは「黒人は人間種としてのレイヤーで考えても私たちとは『違う』」と考えていたのではないでしょうか。だから、平然と差別が行われ、そこに疑問すら生まれなかった。
もっと過去に遡ると、もしかしたら差別を受ける側の黒人たちも、その感覚を受け入れていたのかもしれません。

ただ、時代を経てその感覚は変わりました。それまで「絶対的な差異」だと思われていたものは「文化的に作られた一つの価値観」だったことが露見され、そのような可変の価値観で起こる差別は断罪されるべきだという風潮が生まれました。未だ人種差別は強く残っているものの、過去に比べるとかなり改善されたのも事実です。

バトラーは、人種差別において起きた変化と似たような変化が、ジェンダー問題についても起こり得るのではないかと考えるのです。

つまり私たちが「絶対的な差異」だと思っている男女性は「文化的に作られた一つの価値観」である可能性がある。もちろん、男女にはあらがいようのない身体的特徴の差があります。しかし、それは人種についても全く同じです。
かたや「どう考えても絶対的」と見られ、かたや「これは文化的な勘違い」と見られる正当な根拠はどこにもありません。

しかし、男女性(セックス)が「文化的に作られた一つの価値観」であると認めるためには、人種の違いが「絶対的」なものではないのと同じように、男女の違いが「絶対的なものではない」ことを示す必要があります。
この難しい問題に真っ向から取り組んだのが【ジェンダー・トラブル】であり、その結果バトラーが主張したかったのが

「セックスはつねにすでにジェンダーである」

という結論なのです。

これは非常に難しい挑戦です。なぜなら、私たちは現状「セックスは絶対的なものである」と信じ込んでしまっていますから、それが文化的に作られたと言われても、その状況を客観的に認知する術がないからです。
しかし、人種問題もそれに近い道を通ってきたはずです。幾度の挑戦と幾度の失敗を繰り返し、少しずつ人種についての解釈が変化していき、今の私たちの感覚に結実しています。

バトラーは、ジェンダー問題においても同じことを実現するためにはどうしたら良いかを考え、その方法論を提案しました。(そう捉えると、バトラーの提案する方法は、人種問題がこれまでに歩んできた挑戦→失敗の歴史と驚くほど共通点を持っています)

そういう意味で、例えば20年後とかに

「へぇ。男女性に関してそれを『絶対的なもの』と認識するような時代があったんだ。怖っ」

みたいな感覚が当たり前になっている可能性もあるかもしれませんね。


簡単にまとめると、バトラーが言った「セックスはつねにすでにジェンダーである」という言葉には

・男女間とジェンダー問題の根底には「セックスは絶対的で不変である」という強固な共通認識がある
・その認識を保ったままジェンダーだけを論じても、それはセックスの絶対性を強化することにしかならない(フェミニズム第二波の失敗)
・だからまず「セックスも文化的に形作られた価値観である」ということを認めることから始めなければならない。

とする意味が込められているのです。


その上でバトラーは

・ジェンダーは行為遂行的に形作られる
・ジェンダーは引用と反復によって形作られる
・その構造はセックスにおいても同様である
・だからセックスに対する固定観念を変えていくためには、その方法も行為遂行的な引用と反復でなければならない
・それはある種のパロディである
・パロディ的な身体的行為を失敗前提で繰り返すことで、セックスに対する固定観念が変化していく可能性がある
・その先に、ジェンダー問題の解決があるかもしれないし、それ以外にそれを解決する方法はないように思う

と展開していきます。
この辺りになるとさらに難しく、とても「簡単に」表すことができなくなってきます。

ぜひ原著や解説本などにチャレンジしてみてください!


原著
ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

解説本
ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い


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