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不知の自覚|ソクラテス 【君のための哲学#1】

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☆ちょっと長い前書き

将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



不知の自覚


ソクラテス(紀元前470年頃 – 紀元前399年)が説いた「知」に対する向き合い方。一般的には「無知の知」という表現が浸透しているが、意味を考えると正しくは「不知の自覚」と表現すべき概念である。

ソクラテスはアポロンの信託(神様のお告げのようなもの)によって「お前以上に賢いものはこの世に存在しない」と告げられる。しかし、ソクラテスは自分のことを賢いとは思っていない。それどころか、自分が知っていることなどほとんどなく、知らないことの方が圧倒的に多い。
彼はさまざまな「賢い人」と対話した結果、一つの結論に至る。

世の賢人たちは「自分が何も知らない」ことを自覚していない。
「自分は何も知らない」と認識しているという意味で、他の無自覚な人よりも自分は優れているのではないか。

ソクラテスは「無知の知」を前提にさまざまな論者と議論をした。多くの論者は「自分は何かについて確実に知っている」と考えていたが、ソクラテスの度重なる質問によって、彼らが「確実に知っている」と思っていたことが如何に曖昧な主張だったかを知らしめられる。このようなソクラテスの活動は知識人たちの強い反感を買い、ついに彼は「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で死刑を宣告されてしまう。死の間際、弟子であるプラトンと交わした会話は「不知の自覚」をよく表している。

プラトン「先生は死ぬのが怖くないのですか?」
ソクラテス「死ぬのは怖くない。そもそも、世の中の多くの人は死後の世界のことをあれこれ語っているが、死後の世界のことなんてわかるわけないじゃないか。そうやってわからないものを分かった気になって、余分に恐怖を感じている。それはまさに自分が知らないことを知っていると信じるという無知であり、賢くないのに賢人を気取っているのと一緒である。私は死後のことについては何も知らない代わりに、それを知っていると盲信することもない」
プラトン「でも、死ぬのは怖くないですか?」
ソクラテス「怖くないよ。世の中には死後の世界についての主張が大きく分けて二つある。一つは唯物論者における死後の世界は虚無であるという主張。仮にそれが正しいのだったら死は怖くない。だってそれは、これまで生きてきた中でも最大級に快適だった一つも夢を見ない睡眠と同じようなものだからね。もう一つは冥府があるという主張。その場合も怖くない。だって、冥府があるのだとしたらそこには過去の偉人(ホメロスやヘシオドス、オデュッセウスなど)がいるわけで、彼らと思う存分問答ができるからね」

『ソクラテスの弁明』から引用 かなり意訳


君のための「不知の自覚」


私たちはすぐに「それは知っている」と理解する。あるいは「それは正しい」と尚早に判断する。しかし完全に正しいことなんてそうあるものではないし、何かを知った先には必ずまた別の知らないことが存在している。
「それは知っている」「それは完全に正しい」と認識した瞬間、その思考は固定化されてしまう。固定化されたら最後。その認識は常識としてカチカチに固まってしまい、後から入ってくる新しい情報を退けようとする力が生まれる。私たちが知識や見識を仕入れ、それを知ったつもりになったとき、それと同時に新しい知識や見識の入り口が閉じていってしまうのだ。
ソクラテスは、常に知識を疑う姿勢を提示した。今自分が知っていると思っていること。それは本当に知っていると認識して良いことなのか。あるいは今自分が完全に正しいと考えていること。それは本当に完全に正しいと言って良いことなのか。不知の無自覚に陥らないために、常に疑いと謙虚の姿勢を持って世界に向き合う。ソクラテスはそのような勇気を説き、そして彼自身もそのような生き方を貫いた。
とはいえ、人間は弱い生き物である。正しいか間違っているかはっきりとしないという状況をそのまま放置できるほど人間は強く造られていない。(それに、あらゆることを疑うほど現代人は暇じゃない!)
だから易きに流れる。
不知の無自覚は人間の弱さであり、不知の自覚は人間の強さなのかもしれない。
しかし、不知の自覚という概念を覚えておくこと。さらに不知の自覚を体現していきた人が過去に存在していたこと。
その認識は、人生のさまざまな場面において、少しだけ目の前のことを疑う姿勢につながるのではないか。そして、その姿勢は固定化されない柔軟な思考に繋がり、その柔軟な思考はきっと人生を助けてくれる武器になるだろう。


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