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旅と写真

大分県の国東半島に行ってきた。
久しぶりの旅行で、PENTAX 645Dを持ち歩くのは正直辛い。
旅のカメラは軽ければ軽いほど良い。
旅とは見慣れない環境を彷徨い、新たな発見や知らない道での不安を感じるためのものであると思う。
だからこそ、彷徨うことに重心を置いた旅であれば、カメラは軽いほうが良い。
しかし、今回はミラーレスカメラ全盛期に時代錯誤の巨大な黒い塊を担いでの彷徨い旅となった。

旅の写真に求めるものはなにか?
それは記憶のバックアップである。
作品としての写真を撮るため、その景色を撮ることが目的の旅ではないのであればの話だが。
これは現代の旅が単純に余暇であるからだ。
経済にとらわれて生きている我々にとっての旅は、貴重な休日を如何に有意義に過ごせたかの確認のための小旅行なのである。
故に、旅に行ったという記憶が重要である。
家族旅行ともなれば尚更で、あとでアルバムでも見ながら思い出話に花を咲かせるための写真=記憶のバックアップなのである。
一人旅でも、その場所に行ったという記録としての写真を半ば義務的に撮影する。SNSに上げるわけでもなく、ただ義務的に記録しておく。
何かの役に立つかもしれないし、あとで必要になるかもしれない記録としての写真。
旅の記録写真は、その場にいたというアリバイ写真でもあり、経済にとらわれている人生のスパイスのようなものだ。
日々変わらない日常で気が狂わないための、本能的な処方箋といったところだろうか。

そんな旅の写真を今回は中判デジタルカメラで一枚一枚しっかりと撮影した。
写真を愛する者の旅とは、一般的な人たちより旅の中の写真の比重が確実に重い。
今回は自由気ままな一人旅であったので、放浪6:写真4という感じである。
僕の愛する写真旅は、車で彷徨いながら、気になったものをひたすら撮影するというロードトリップ形式であり、気分はロバート・フランクやスティーブン・ショア、そしてアレック・ソスなのだ。
せっかちで飽き性な僕にとって、日本人写真家に多い都市やある環境で粘りに粘って撮りまくるという定点観測の中に光る何かを追い求める撮影というのは向かない。
アメリカの写真家は、広大な大地をボロ車で走りながら、自らに刺さるものを撮る、しかも8×10で。
日本の写真家は一定の範囲内で長時間過ごす、またはそのコミュニティーに入り込むことによってしか見えない何かを求めているような気がする。
よって、撮影はスナップが多く、軽量で好機を逃さず、そして相手にプレッシャーを与えないコンパクトなカメラが求められる。
アメリカの写真家は、車に巨大なカメラを投げ込んで、広大な大地を放浪しながらここぞというポイントでじっくり撮影する。
アメリカの雄大な大地、もしくはアメリカの田舎の日常、その両方を撮影するためにはより高画質なカメラが必要となる。前者は雄大さに負けないために、後者は何気なさを何気なさで消費させないために。
僕はアメリカンスタイルということになる。
この理由は飽きっぽい性格なのと、山陰のど田舎生まれという出自が関係しているだろう。
山陰は車がなければ生活ができない。2,3時間車を走らせないと大都市にもいけないため、長時間に及ぶ車の旅には抵抗がない。
むしろ都会の混雑する公共交通機関やゴミゴミした都市の乱雑さは耐えられない。


車の旅の良いところは、どこでも車を止めて撮影ができることと、何でもない道中に発見があることだ。
とある目的地に向かう田舎の一本道に、個人的に刺さる素晴らしい光景があったりする。
そしてカメラや三脚をゴロゴロ乗せられるし、もちろん金はないので時間制限のない車泊旅だ。
こういった車移動での放浪は、ある程度の目的地さえ決めれば、実際に現地の空気を吸ううことで移動ルートや行く場所・行かない場所を決めることができる。
そして予期せぬ風景と出会い、カメラをセットしてガシャンと撮るのだ。

旅は非日常であり、日常に囚われている自己の生の実感を確認する行為である。
ルーチンワークの終わらない日常は、経済的な合理性のみで回されている。
そこに私はいない。
旅とは非合理的だ。金はかかるし、せっかくの休日に疲れるだけであり、道は間違えるし、事故する可能性だって高い。
現代は確信犯的な非合理的行為でしか自己を確認できない。
カメラはそんな現代人の習性との相性が良い。
非合理的な行為の最中を後世まで記録することができる。
その写真に写された景色や自分の姿は、生きている自分の証拠なのだ。
仕事中の自分の姿は殆ど撮らない。ましてや仕事の失敗はすぐにでも忘れたいのに、旅先で道に迷った挙げ句たどり着いた何でもない景色に感動することはある。
写真に収めるという行為は、現代社会に生きる上で捨て去った生の実感という痕跡を繋いでいくことなのだ。
豊かで便利で安全な現代社会に生きるために、我々は人間本来の生き方を捨て去った。
そのアンビバレントな忸怩たる思いの発露が旅であり、半ば犯罪的な確信を持ってその瞬間を写真にする。
旅とカメラは共犯関係なのである。

国東半島の旅の詳細はこちら

国東半島のロードトリップフォト


アメリカ写真の正統後継者アレック・ソスのロードトリップフォト風に島根県を撮りました。

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