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四国写真旅〜③善通寺と四国水族館

前回の記事で金毘羅さん詣でを終えたけども、観光消費的焦燥により善通寺に向かうところの僕。いわゆる続きである。


善通寺

Wikipedia様曰く、807年に真言宗開祖空海の父である佐伯田公を開基として創建された立派なお寺。
だだっ広い境内、金毘羅よりも観光客少なめ、若者も少なめ、久しぶりの静かな巨大寺院。
巨大寺院・・・大好物である。
西本願寺とか最高、ミャンマーのクレイジー金ピカ寺院なんかみんな裸足で寝ちゃってたり、タイではブッダが寝ちゃってたり、仏教寺院はとにかくデカくて静かでおおらか。
とにかく人間、超弩級な人工物が大好きなのだ。
自然への挑戦は神への「僕を褒めて」
古今東西、デカけりゃええものだを文明を滅ぼしてまで建てまくった巨大建造物、マチュピチュやアンコールワットやタージマハルを見てきたが、とにかくデカけりゃええだろうとバベルの塔を忘れた子孫たち。


邦国最強天才空海縁の地ということで、少しでも賢くなりたいと願うのであるが、賢いとはなんぞや?
そもそも良きことって何?
仏教的には悟りを開き、輪廻から解脱することが良しとされるのか?
上座部と大乗では違うし、そもそも原始仏教とも違う、手塚治虫のブッダとも違う。
キリスト教やイスラム教とも違うし、僕の聖書「AKIRA」では健康優良不良が良しとされているけどこれも違う。
古代ギリシアの毒人参を愛する哲学者のようにとぼけた口調で無限回廊へと誘う「正解」への欲求。
とりあえず、ライカのカメラを買うことは良くはないと思う今日このごろ。
しかしライカを買っても悟りは開かれない。
地獄はマップカメラにあり。


「ライカは終わりの始まり、沼の底にはまだまだ達せぬ。そういえばSONYからついにグローバルシャッター出たね。あとSIGMAさんFoveonまだかね。楽しみだね」
弘法大師様がそうおっしゃった気がした。
※個人の妄想です


罪深きカメラ沼の住人たる私をお許しください。
自宅の防湿庫に詰まる煩悩の数々、ああ罪深き私めに宝くじを当ててくださいまし。
涅槃に程遠い自らの煩悩はとりあえず置いておいて、五重の塔にシャッターチャンスを求める。


なんか五重の塔とこの時間の光が、モノクロ写真しか撮れない変態センサーと相性が良いよ!
早速煩悩にまみれた僕の眼前に、それはそれはナイスタイミングで不吉な黒鳥が!
毒を食らわば皿まで、地獄の沙汰も物欲次第。


宗教施設で不遜な欲求に駆られ、俗世の畜生道の最たるシャッターチャンスに悶えるこの浅ましきカメラ小僧をお許しください。
決定的瞬間を求めるのは欲なのか?
善きとされている映える写真をSNSに流せばドーパミンじゃぶじゃぶの「いいね」の嵐。
それは承認欲求を満たし、そしてより強い刺激を求める無限地獄へのトロッコ乗車切符となる。
人はそれにより、自然を駆け、鉄道を追い、野鳥を待ち、「いいね」を求める。
「俺は撮りたいものを撮っているだけだ!」と宣うなれば、それをヴィヴィアン・マイヤーの前で君は言えるのかね!ええ!?
「僕はSNSでバズってインフルエンサーになって大金持ちになってチヤホヤされたいから撮るのです」と開き直れるのであれば、それは無限地獄での無限闘争。終わりなき戦いの先には何があるのかね?
なぜ人は写真を撮るのか?そしてなぜ善き写真を求めるのか?
僕の思う善き写真は、世間が思う善き写真なのか?
善き写真とは写真賞を取る写真か?SNSでバズる写真か?家族が喜ぶ写真か?自己満足できる写真か?
禅問答は尽きない。なぜならそのすべてが写真だからである。
僕の答えは、「とりあえずSIGMAのフルサイズFoveon使ってみてからだな」といつもの先送り・・・


閑話休題、危ない危ない。
荘厳な五重の塔のせいでひどくメランコリックになってしまった。
弘法も筆の誤りをするくらいだから、凡人のカメラの誤りは自然の摂理であろう。

手打ちうどん 一屋 丸亀三条店

そんな弘法大師様も悩んだであろう実存的な苦しみは、うどんで浄化すべし!
肉乗せ放題の経済性にはアダム・スミスも目に見えて手が進むだろう。


夜は琴平温泉にて。
さぬきビール抜きにしてはさぬきは語れまい。

さぬき名物の骨付鳥を求めて夜の参道へ。
意図せず地元の祭りに遭遇。観光には適さない、本当に地元の祭り。
地元の人々の地元の人にはわかる催し、地元の人間関係の濃密な空気、地元地元地元・・・なんと猛烈な異邦人感!
お呼びではない異邦人は、地元の祭りの人混みを何処か申し訳無さそうにかき分け、やる気のないアルバイトのお姉ちゃんが持ってくる非地元な観光客向けの骨付鳥を喰らう。
これぞ、旅。旅の疎外感は、地元から離れた身で、お呼びでない地元の空気に身を晒すことである。


おはよう讃岐富士!
ということで、最終日である。
いつもどこかしらで見守ってくれた讃岐富士。
その形、出で立ち、立ち姿、我が民族の大好物な形。
日本にいくつあるのかご当地富士。
火山ドッカンドッカン大国JAPAN。


純手打うどん よしや

すべて宿泊は素泊まりであるので、早朝から車を走らせて情熱の早朝うどん。
最高にうまくて朝からひっくり返りそうになった。
とりあえず味覚が小学生レベルの拙僧でも、この言語化できないうまさは体感できた。
もはや体感である。風とか地震のあれである。
ああ、もどかしいウィトゲンシュタインよ!


四国水族館

ということで、四国の去り際に水族館へ。
海豚はどこか人をナメている気がする。


修学旅行の青春の重苦しい空気でお腹いっぱいになる。
最近の若い子はスマホのせいで、修学旅行もSNSの辺縁にあるような立ち振舞い。
おじさんのときは写ルンですでジーコジーコしながらここぞというところを撮ってたっけ。
記憶の質が違うのだ。
最近の若い子は記憶すらインターネットに繋がり、関係性はその中に包括されている。内の中の外であり、その場所を何かしらで埋めなくてはならないという衝動に突き動かされている。
だから「青春」は消費されているのか。
おじさんの頃は青春はどこか恥ずかしいものだったが・・・
青春に縁が程遠い僕は、そんな青春ごっこしている同級生を見て「ふん、オールドタイプが」と村上春樹っぽくため息を付いていたが、今思えば精一杯の強がりであり今思えばもうちょっと青春しとくんだったなあと一抹の後悔。
でも青春しなかったからこそ今の偏屈な自分がいるので、そこはプライスレス。
最近の若い子の清々しいまでの青春消費はそれはそれで良いものなのだろう。
時代は移り変わるのである。おじさんにはわからない世界で、彼ら彼女らは何不自由なく苦闘している、それこそ青春じゃないか。


非青春の青春時代、疾風怒濤とはよく言ったものだが、そんなことは微塵も感じずに世界をただ眺めていた自分は水槽の前ではしゃぐ人間か泳がされている魚群なのか。


人生は当事者でなくてはならないということを学んだ学生時代、流されることに反発しながらも流される気楽さに身を投じることができなかった頑固さを噛み締め、修学旅行生の群れのすぐそばで働く若人を眺める。
結局、自分の生き方は良い年をしてモノクロしか撮れないバカ高いカメラを買うような濁流のそばの酸欠の淀みであることは理解している。
それでいいじゃないか!と肩を叩くのは誰?


「生きろ。」
糸井重里と今の僕が言えるのはただこれだけである。


中村うどん

そして名残惜しさに負けてまたうどん。
さよなら、四国。というか、うどん。
当分、冷凍うどんが食えない体にされてしもうた。
もう、香川にしかお嫁に行けないわ。
でも道後温泉のしっとりした湯も忘れがたい。
ああ、四国よ。そしてすまぬ徳島と高知。
今度は四国一周だな〜と言いながら、瀬戸大橋を渡る。
久しぶりの本州は少しも変わってなく、しかしどこか色褪せて見える。
隣の芝生は青く見えるというが、隣のうどんはたしかに美味かった。
帰って出雲蕎麦でも食うか。

END

哲学的写真旅行記と見せかけて、たいてい地酒を求めている旅、それぞ旅。


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