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写真と唯物史観とこれからの写真

図書館で借りてきた美術手帖(2020年10月号)に面白い記事が書いてあった。
白井聡氏の「アートと資本主義の関係」である。
何でもかんでも商品化されてしまう現代においてのアートとは?というスタンスでの資本主義批判である。
シンプルに労働意欲皆無が故に反資本主義の立場である僕は、しかしカメラという資本主義の権化ともいうべき趣味性の高い不要不急の商品を愛でている。要するに典型的な現代大衆である。
白井氏曰く、マルクスの唯物史観に照らし合わせた構造はアートにも適応されているとのこと。
経済活動の様式=下部構造が上部構造である文化を規定しているというやつだ。
こうした観点からスターリンは社会主義リアリズムとしてアートを規定し、タルコフスキーは亡命した。

ルネサンス以前のアートは王権や宗教に経済的に依存しているために従属しており、ルネサンス以降はその支配から脱し、そして近代ブルジョアジーに従属していく。
アートは社会構造と切っても切り離せないのである。
近代、アートはパトロンのためではなく、抽象的かつ匿名的な市場に依存し、市場が価値評価の基準とされた。
価値の決定は、大衆の嗜好という下からの要因と権威的な制度という上からの要因に大別された。

写真は近代になって発明されたものであり、昨今やっとこさアートとなった。
写真は発明当初から資本主義の強い影響下にあり、広告としての「大衆の嗜好」との親和性が高い。
戦後、少しずつ広告やジャーナリズムより離れたアートとしての写真は醸造されていき、数億円の「価値」のある写真も生まれた。

しかし写真は「大衆の嗜好」に密接し、現代は大衆でも簡単に体験できるアートのひとつでもある。
さらに写真雑誌や写真賞のような権威的な制度がまさしく資本主義経済の停滞によりその地位を失ったことで、アートとしての価値は大衆には理解されていないように思う。
著名な写真賞受賞者より、著名インスタグラマーの方が「価値」があるように見えるのが現代である。
8×10で撮られたアレック・ソスの珠玉の一枚より、iPhoneで撮られたインフルエンサーのインスタ映えする一枚のほうが社会的影響力は圧倒的に強い。

かと言って現代アートはどうであろうか?
まさしくゴリゴリの資本主義リアリズム、ただの意趣返しとマウントゲームに成り下がっている。
権威的な制度がゲーム的に規定する「価値」を、オイルマネーが掻っ攫っていく。
大衆はそれを見て、「価値」を消費する。
アートは死んだのか?

同じ美術手帖の記事で、哲学者マルクス・ガブリエルのアート批評もある(こちらもマルクスである)
マルクス・ガブリエルは大都市にしかコンテンポラリーアートがない現状を批判し、アートによるローカライズされたコミュニティ作りを奨励している。
これは上からの権威的な制度としてのアートのゲーム性批判として取れる。
メッシの移籍金や巨人のドラフト狩りのようなマネーゲームは、下部構造によるアートの価値の規定=シンプルなマネーゲームの茶番劇として、その本質的な価値を毀損しているのだ。
マネーゲームは短絡的な価値を産み、そのカテゴリに属する「権威者」たちを潤すことになる。
しかしそれは本質的な価値を先売りしているだけであり、いずれバブルは弾ける。
メッシなんて球蹴りがうまいだけじゃないか。何がすごいんだ?と。
経済合理性だけで彩られた世界は、その世界を視野狭窄にし、「勝手にやってろ」と見放される。
その瞬間、上部構造は須く商品に成り下がるのである。

ローカライズされたコミュニティ作りの材料としてのアート、これこそアートの本来の価値であろう。
古代の洞窟に描かれたアート作品は、祭りや宴でコミュニティを形成する動機づけと同じような「価値」があったのだろう。
写真は大衆に近い分、ローカライズされたコミュニティ作りのための道具として最適である。
資本主義の権化であるSNSであるが、ローカライズという観点では非常に有益だ。
マニアックでニッチなカメラや写真のローカライズ過ぎるコミュニティ作りに、SNSはこれ以上ないツールとして利用されている。
「そんな写真に価値はない」と自己満足として一蹴されようが、そのコミュニティでは金に換算できない価値を生んでいるのだ。
現代写真が目指す「価値」とは、コミュニティなのである。


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