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写真旅〜国東半島ロードトリップ

久しぶりに休みが取れたので大分県の国東半島に行ってまいりました。
今回は車移動でのロードトリップ、カメラはPENTAX 645Dをメインとして車泊しながら自由気ままな旅となりました。
ロードトリップ動画写真集にもしておりますが、この記事ではゆっくり道中の写真とともに国東半島の美しい景色と旅の悲喜こもごもを書いてみようと思います。


関門海峡

山陰のド田舎から車を走らせること数時間、やっと本州の先っちょへ到達。
長らく都会にも行けていなかったので、仰ぎ見る高層人工物を久々に相見えることに。
その圧倒的で仰々しい面構えに、なぜかもののけ姫的な自然観に浸る僕は、この先待ち受けている大日本物流システムの凶暴な現実を知る由もなかった。


この時点で午前2時である。
仕事を終え、嫁に頭を垂れて我が家(ローン残)をこそ泥のように抜け出した僕は、本州の先端にたどり着いたというインフラストラクチャとマイカーとカーナビのおかげだけの快挙に達成感を感じつつ、猛烈な眠気に襲われていた。
「次のパーキングエリアで仮眠を取ろう」
僕のロードトリップスタイルは、世界一高い高速料金の夜間割引をうまく使い掻い潜ることを基本原則としている。
よって深夜帯に高速道路に僕が然と存在していたという事実を、ETCちゃんが確認さえしてくれれば良い。だからもう寝たいのである。
20代の頃、高速道路一律1000円という政治力学のおこぼれにより、僕は日本中を旅した。
あの頃僕は若かった。18時上がりで入浴と軽食を済ませ、そのまま関西から北陸の奥深くまでポン中の馬車馬の如く走り、わずかばかりの仮眠の後、畏れ多くも3000m級の山々に挑んでいた。
それがどうだ。齢30を超え、僕はひたすら眠かった。
そしてパーキングエリアに行けども行けども、駐車場は大日本物流システムにより差し押さえられていた。
「ああ、我が家にすぐに届くAmazonの荷物はこうした過程を通っているのね」
大日本物流システムに依存している身としては、遺憾の意を表することすらできず、僕はひたすら安住のパーキングエリアを求めて走り続けた。

宇佐神宮

九州の朝日は強烈である。
いや、それは何も変わらない。純粋無垢な寝不足である。
あのままパーキングエリアを東海道中膝栗毛しながら回った僕は、気づけば目的地に到着していた。
午前4時、あたりは静寂に包まれ、まるで精神と時の部屋のような眠気を誘う空気に満ち満ちていた。
パーキングエリアを巡る旅など低予算グルメ番組か尿意が井上尚弥のフットワークばりに速い人間くらいしかしないだろうと思っていたが、おかげで気づけば到着していたのだ。
東九州ハイウェイ、右に見える工場、左には自動車工場、退屈でしかない。


日頃の行いが良いためか、おかげさまで朝から強烈な日差しがピンポイントに2時間半しか眠っていない僕の顔面を照射する。
朝早い神社はとても静かである。
そこを子熊のようなカメラを担ぎ、僕は青白い顔でトボトボと歩く。
「こいつはCCDセンサー搭載の中判デジタルカメラなんだ」
気分はなぜかアムロ・レイ、悲壮である。

宇佐神宮は由緒正しき八幡宮の総本社。
そもそも国東半島になぜ訪れたのかというと、とにかく「謎」であるからだ。
国東半島の歴史は非常に古く、神話時代にまで遡る。
九州北部や出雲や奈良盆地といった古代の歴史ロマンを売りにしている地域ほど有名ではないが、それに匹敵するほど古く、そしてよくわからない。
とにかく何を読んでもよくわからない。
日本の歴史の繋がりに繋がってそうで詰めることができないなんともいえない距離感が謎を醸し出しているのだ。
それを確かめてやろうというのが今回の旅である。
僕の旅は小田実精神で貫かれているのだ。

広大な宇佐神宮を練り歩くのは、寝不足気味の30代男性には少々神罰である。
全国津々浦々の有名神社を回ってきた僕から言わせれば、広大かつ八幡造の建築様式が楽しめる善き神社であった。
霊感皆無でスピリチュアルは資本主義だと信じている物神崇拝無神論者な僕ではあるが、パワースポット的な感覚はちょっと信じている。
以前、これまた寝不足の早朝熊野大社に参ったときに神がかった腹痛に襲われ、神よりもトイレを探し回ったことがあるからだ。
宇佐神宮はそんな霊性を感じさせる厳かな空気に満ち満ちたトイレがきれいな神社であった。

熊野磨崖仏

神々しいパワーを纏った僕は、ローソンのサンドイッチを頬張ることで俗世間へと舞い戻った。いとうまし、からだに悪し。
ちょっとこぼしちゃったローソンコーヒーをウェットティッシュで拭いながら、カーナビに熊野磨崖仏と打ち込む。
熊野磨崖仏、My死ぬまでに行きたいところトップ10に長年君臨していたスポットである。
日本という国は、基本的に「木」の文明である。
建築物の材は主に木である。
日本列島は木に根ざした文明であり自然観を持っている。欧州のように木が生えにくい・育ちにくい文明は石の文明になっている。
文明とは身近にある材に宿る。自然災害がどぎついからこそ木に恵まれているという日本の自然の中で、我々はこうして生きている。地震怖い。

そんなJAPANで珍しい磨崖仏。
某原理主義者にふっ飛ばされたあれや、中国には多く見られる磨崖仏。
そんな磨崖仏だが、なぜか国東半島には多く存在する。
そしてそれもよくわかっていない。謎だ。

こんな美しく巨大な磨崖仏だが、作者不明らしい。
鎌倉時代に作られたようだが、とにかく謎。
謎なのに荘厳、マチュピチュやモアイ像くらい中二病知的好奇心を奮い立たさせてくれるではないか。

火山からなる国東半島は石まみれである。
そして古代より神道が盛んな風土。
巨石信仰は人類共通の感覚であるが、そこに神や仏や生活が織り混ざることで生まれたのがこの磨崖仏だろう。
この磨崖仏から受ける印象、それは日本の自然の頑固さだ。
文化輸入大国であり、肉じゃがとカレーうどんと海老マヨを愛するガラパゴス民族である我々が生み出したものは、すべてヤンキーの魔改造バイクのようでもある。
この磨崖仏からはそんな魔改造文明への反骨心をひしひしと感じる。
作者不明の人々が、日本の自然の頑強さと対峙して生み出された魔改造仏。だがそこには縄文より続く日本人の自然観が色濃く残っているような気がする。
圧倒的かつどこか懐かしい磨崖仏は、異形に見えてこれこそ日本的な自然美の結実だと思うのであった。

富貴寺

六郷満山と呼ばれる国東半島独特の信仰がある。
神仏習合初期のたぶん手探り状態な時代、宇佐神宮にある八幡信仰や山岳信仰と仏教がミックスされた結果、深い山の中に寺社が点在している。
富貴寺は貴重な平安建築、めっちゃ落ち着くやん!というなで肩な細君の印象。平安はなぜか女性的である。

どこか神社にいるような感覚も神仏習合という魔改造文明の所産であろうか?
思えば遠くに来たもので、本当に深い山の中にこんな艶っぽい建築物があるなんてツンデレ萌え文化の先駆である。
セイラさんのような気品を感じつつ、どこかマチルダさんのような厳しさと優しさを、そしてララァは私の母になってくれたかもしれない女性だったのだ!!!!
絶対キャスバルさんはここが気に入ると思う。

田染荘

墾田永年私財法時代の棚田が残る田染荘。
宇佐神宮の荘園として長らくこの地域の人達を支えてきた水田だ。
そんな教科書に出てきたワードが色濃く残る水田を走る軽トラック、なんともいえないシュールな写真となった。
しかし山ばかりで限界集落だらけの山陰生まれの僕からすると、「広いから効率良くてええなあ」という感覚である。
都会の人はこれを見て「わあ〜トトロの世界みたい!」というだろう。
俺たちはまだこんな景色でも生きているのだ。ユニクロすらなくても生きろ!

両子寺

六郷満山の中山本寺で、修行の中心地として栄えたといわれる両子寺。
両子寺といえば山門にある金剛力士像。
いや、これラスボスの部屋の目の前じゃん!
ぜったい通り抜けようとしたら襲ってくるやつじゃん!
そんで会心の一撃ばっかりで面倒くさいやつじゃん!
ドラクエ世代の宿命を背負い、そして山門へ。

どうやらアストロン中でした。
運慶作のようなリアリズムではないけれども、なぜか動き出しそうな静かな躍動感がたまらない金剛力士像だ。

山門、苔むした石段と濃い森の中に佇む。
雰囲気最高、景観独占、平日最高!
この他にも六郷満山の寺社仏閣を巡ったが、総じていえることは小さいながらも歴史を感じる雰囲気と国東半島の自然に溶け込んでいるところだろう。
京都の町中にドッカンと立ち並ぶ寺社とは違い、その場に自然に生えてきたような印象。
やっぱりね、根拠はないけど国東半島は日本の自然と人間の生活がすごく調和しているような気がするのね。

奥ノ院に向かう。
こりゃまた苔苔しい道。
気分はラピュタである。
なぜ人は自然に取り込まれそうになっている人工物に惹かれるのか?
アンコールワット然り、マチュピチュ然り、熊野古道然り・・・
そうか!人は自然に帰りたがっているのだ。
そんな詩的なことを思いついたのは、この時点で僕は極度の空腹で幻覚を見ていたからだ。
さすがに山の中とはいえ、一応観光地なんだからスーパーか土産物屋か何かあるだろうと高を括っていたところ、本当に何もなかった。
故に自動販売機のコカコーラで生命維持しながら僕はこの山の奥深くを巨大カメラと三脚を担いでよじ登っている。
神様仏様、自然に帰る前にコンビニ行かせて・・・

奥ノ院にたどり着いた。
完全に貸し切りである。
なんかちょっと怖い。
人嫌いのくせにあまりにも人間がいないとちょっと怖くなるのはなぜだろう?
コンビニの入店音が頭の中に響き渡るというちょっとした生命の危機を感じつつ、紅葉の時期とかやばいんだろうなと細い道を歩きながら思う。
こういう霊的な静寂の場所というのは、より自己との対話が弾むのである。
そうだ、飯を食わねば。
生きろ!

ここからの僕の旅は、霊的な山の頂から俗世間への渇望という罰当たりな高速移動を始める。
だってお腹空いたし風呂入りたいじゃない、にんげんだもの。
どうやら最寄りの俗世は国東市国見町というところのようだ。
神様、いやGPS様がおっしゃるには国見町に降りる途中で日帰り温泉がある。
空腹は耐えかねるが、耐えれば耐えるほど飯がうまいというのは真理である。
日帰り温泉で横のじいさまたちが誰々が死んだという話を延々としているのを聞きながら、自分が聖と俗の狭間にいることを知る。
そして19時、国見町に舞い降りる。
幻覚まで見たコンビニエンスストアへの到着を告げるカーナビのお姉さんの声を聞き終える前に店内に駆け込む。
はう!個人経営?ほとんど商品がない。僕が山にいる間に核戦争でも起きたのだろうか?
惣菜も弁当もない、急いで近所のスーパーに向かうもすでに閉店。
ひゃあ、これあかんやつや!
夜食もコカコーラって、わしゃアメリカのハエか!

気づけば地元の人が行くような路地裏の居酒屋で巨人戦を見ていた。
おじさんが「今から船に乗るの?」と聞いてきたが、観光客です。
おじさんはメニューにはない定食を作ってくれた。
うまい・・・五臓六腑にとり天が染み渡る。
かなりの弾丸ツアーだったので疲労困憊である。
そして車の中で眠りにつく。今日はよく眠れそうだ。
車内に侵入してきた一匹の蚊を一時間近く追い回したあと、俗世間的な殺生を終え、僕は眠りにつくのであった。
「けっこう血ぃ吸いやがって」
心的霊性は俗世で瞬時に浄化され、ああビール飲めれば最高なんだけど・・・・・・・

大不動岩屋

目覚め悪し、ゆく年くる年の営みには勝てず、車泊が厳しいお年頃に。
昨日の弾丸ツアーのおかげで旅程が大幅に短縮されたので、今日は昨夜の居酒屋のおじさんおすすめの大不動岩屋に行ってみることに。
そこはまあまあな登山である。

道中、もちろん人影なし。
転がる巨石が熊にしか見えない。
熊鈴を忘れてしまった。どうしよう。
お、そういえば九州は熊絶滅してるんだっけ?
山陰の山は熊が犇めいているので、というか民家にまで入ってくるくらいフレンドリーなのでつい。
でも乙事主はたしか鎮西から渡ってきたはずだし、気を引き締めなくては。

30分ほどの登山で大絶景に到着。
火山でできてます感をこれでもかと感じて満足である。
ちなみに壮大過ぎて(広角過ぎて)この景観を網羅できたのは皮肉にもスマホのカメラであった。
めっちゃ重かったのに・・・

スマホの写真、そりゃこれだけカメラ持っていってたらしんどいわな。
頼まれてもいない山伏カメラ野郎として、国東半島の奥深くを漫遊することができた。
国東半島のイメージはとにかく岩である。
そこら中に岩がそびえ立ち、見事な石段や磨崖仏がより自然の畏怖を醸し出している。
古来より人間とともにあった岩なのだ。
我が山陰の岩といえばたたら製鉄で崩されまくっている。それも地形を変えてしまうほどに。
そういう意味で、もののけ姫の舞台ともいわれる山陰の山生まれが乙事主の故郷の山を見ると、神々の怒りもさもありなんといった感じがして感慨深いものがある。

こうして僕の旅は終わったのである。
久しぶりの当てのあるようなないようなロードトリップ。
積年の訪問欲を満たし、来た見た勝ったと写真を撮り、そして自然と信仰の歴史を感じつつ、俗物に塗れ糊口を凌ぐ旅。
これぞ旅である。
意識的にロボットのように働く日常を照らす無意識下の鋭敏な感覚は、人間本来の生の実感を取り戻す。
世界は白だけではなく黒もある。その両面を行き来するのが人間の生活である。
片面しかない、いや裏があるという概念すら疑うことなく暮らすということは、それを耐えきれない人間にとって果てのない苦痛の日常となる。
旅はまさしく世界を広げる。純粋な経験ではなく、意識できない小さな影響が体を貫いていく。
そして世界の大きさを知るのである。
世界の大きさは変わらず、世界に対する自分の大きさが変わるのである。
現代人は世界に対して自分が大きすぎるのだ。世界は広いのではなく、自分が肥大しすぎているのである。
そこから生まれるのは、諦めでしかない。
国東半島の旅は、久しぶりにそんな感覚を与えてくれた。

動画写真集、道中の様子もありますので良かったら見てやってください。

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