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一旦写真とは何かを整理しよう

昨今、写真界隈が荒れている・・・ように感じる。
写真界隈とは、プロ・アマ問わず、主にカメラを使って写真を撮っている人間が属しているとされる架空の空間である。
写真とはなにかを語ることが最早不可能なくらい写真の定義は広がり、深度は増し、細い抜け道がいくらでもある。
故に写真界隈は大航海時代の体である。
例えばライカが荒れるのはなぜか?
それは各々が根ざしている写真界隈の一角からライカを見ているがために、ライカという大きな記号の持つ意味の解釈が分かれるからである。
写真家、フォトグラファー、写真愛好家、趣味、YouTuber、アフィリエイター、写真趣味者の妻・・・写真という一つの意味の制動力が、写真の持つ広大な界隈から多角的に見た意味の総和を越えてしまっているのだ。
ウルトラマンは正義の味方だが、ウルトラマンに親を踏み潰された子にとっては敵であるし、バルタン星の住人からは悪である。
「ダークナイト」のジョーカーが提示した社会的な意味の無根拠さと偽りの秩序の欺瞞、それはゴッサム・シティが写真の定義のように人々をもはや丸め込めないからなのである。
写真は無数の主観の相対的「なにか」でしかない、それくらい普遍化し、それでいて歴史のある確固たる「なにか」でもあり続ける。
写真は現代人のライフスタイルに疑問も呈さず侵入し、それでいて写真を仕事にしている人々もいれば、アートでもあり、趣味であり、遊びであり、記録であり、裁判の証拠にもなり、オービスは光り、アルバムを平気で捨てる人はなかなかいない。
大量消費社会の訪れは、写真を大衆に開放した。
それまでの写真の意味も大衆に開放され、それがデジタルカメラやスマートフォンのおかげでグローバルに拡散した。
よって1枚の写真から100万円するレンズの意味も拡散したのである。
SNSでバズるギラギラした写真と、歴史ある賞を取った写真家のよくわからない写真、もはやこの2枚の写真を定量的に評価することはできないのである。
良く言えば市民権を得た、悪く言えば陳腐化した。
それが写真の意味の現状であり、これからは多様化の果ての虚無となるであろう。
これは写真だけではない。例えば文字もそうだろう。特権階級が独占していた技術が、今や子どもでも扱うことができる。
書道のようなアートもあるが、パソコンやスマホで使おうが、クレヨンで名前を書こうが、そこに写真のような各々に意味を見出そうとする「ひっかかり」はあるだろうか?
逆に言えば、現代社会における「金儲け」はこういった「ひっかかり」を蹴飛ばすことでその周辺を巻き込むことができる。
SNSの登場以来、数はそのまま資産となる。
「ひっかかり」は多角的な主観の総体からみるとそこに真理はなく、無限の解釈があるだけである。
無限の解釈を一方的に誘導することで、周辺を引っ張っていけるのだ。
これはSNS上の承認と否定の言語空間があればこその現象である。
拡散されていく意味へ負の感情を抱いている場合、心理的安全性を求めて、意味の意味たる味を求めて、人々は自ずと集う習性がある。
日本語をアルファベットにする計画まであったのだ。
そこには結果なき目的しかない。
これもまた写真の意味の霧消化が原因である。
しかし、再度解釈をまとめようとすれば、そこに権力が生まれる。
アートはこの権力のスクラップ・アンド・ビルドである。
成れの果てが現代アートではあるが。
現代の写真の意味とは、悲しいかなただの主観でしかないという体裁をとりあえず建立するしかなさそうだ(99%の人はそうだろうが)
しかし、主観でしかないからこそ、普遍的かつたゆまぬ実験的「遊び」が繰り広げられる。
主観の共有は言語を超えて楽しめる。
これが現代の写真の意味だろう。


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