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本音がいちばん面白い

Twitterのタワマン文学が書籍になったものを、図書館で借りた。人気のこの本は、予約して、だいぶ待って、忘れた頃に番がまわってきて、借りることができた。会社帰りの電車で読んだ。Twitterで読んだ、140文字程度の短文をつらねた、シニカルでエッジが効いた、世をすねたような短編がたくさん入っていた。最初は、ああ、こんなだった、なんて思いながら読んでいたが、早々に飽きた。エッジでシニカルな短文は、Twitterのスレッドの敷居を超えながら読むからこそ、面白さが増すのであって、紙の本だと、なんだか冷めてしまう。そう、ひとり合点がいき、今日、図書館で返そうと思った。パラパラめくると、最後にあとがきがあった。作者が、創作の原動力となった、過去の転校生について、言及していた。彼へのひんまがった羨望というか妬みというか、そんな思いが、原点となったのだから、あとがきで感謝すべきは彼、という内容だった。めっちゃエッジの効いた、力の入った文章だった。これはたぶん、本音なのだろう。あとがきが、めっちゃ面白かった。その前の短編小説が、かすんだ。やはり創作物より、ストレートな本音が、だいぶ面白い。

本音といえば。自分のことだが、最近、ジムを変えた。以前通っていたところは、スタッフさんも感じがよく、便利で、いいところだった。難点をあげるとすれば、トイレが汚かった。それは、ジム運営スタッフのせいではなく、雑居ビルの共有部分であるがゆえの、しかたのないものだった。駅前のビル。見た目はそんなに古くないけれど、トイレは古ぼけて、きたなかった。フロアじゅう、トイレの洗剤のにおいがした。雑居ビルに職場があると、一見ちゃんとしたビルでも、トイレが汚いケースが多いのだろう。自分の職場の歴代のトイレを思えば、古い新しいにかかわらず、ずっときれいだった。ありがたい環境だったんだなぁと思う。

ジムを変えた理由。トイレのせいではない。旧知の友人が、そのジムに通い始めたのだ。明るくて楽しくて、とってもいい人。しかし、ある日、彼女の存在に気付いたとき、ハッと身を隠す自分がいた。なぜだろう。会いたくない。バレたくない。自分が化粧気もシャレっ気もなく、ださい状態だったからだろうか。いや、それだけではない。古い友人だった。彼女の人柄に関わらず、彼女が見ている昔の自分と今の自分の整合性をとりながら付き合うのが、めんどうに感じたのだろうか。正確にはわからないのだけれど、彼女の中に映る古い自分と今の自分との齟齬がめんどう、というのが、彼女を避けた理由としては、近いような気がした。

いや待てよ、同じように、ジムであった旧知の友人はいる。保育園や、小学校PTAのママ。彼女たちとは、会ったときも反射的に、おっ!と喜んだ。彼女たちと何が違うんだ?

今ちょっと思った。美しかった友人は、今もキラキラ元気なのだけれど、独身のままである。中高年が多いジムで、健康体操をしている姿を見て、ださい自分はともかく、美しい彼女に、おとろえを感じさせないように、当たり障りなくしゃべるのがめんどう、と思ったのかもしれない。こんなトイレ臭いジムで。いつも自分の本音はわかるのに、彼女とのジムでの邂逅を避けた理由はなぜか、いまひとつはっきりしない。

彼女と会うのが嫌で(嫌いではないのだけれど)、トイレも汚いし、時間的にもちょっと厳しい立地だったこともあり、ジムを変えた。表向きは、「会社帰りに間に合わなくて」という理由をいったけれど、本音ではない。本音って、往々にして、言わないことが多い。

新しく通うジムは、無神経なおばさん店長がいやだけど、立地などの条件はなかなか良い。トイレも、雑居ビルだから、きれいとまではいえないけれど、前よりマシになった。

ジムで運動をして、図書館へ行った。タワマン文学本を返却し、予約していた1冊を借りた。それが、これまた別のタワマン文学だった。(忘れてた) きっとこれも、あとがきが面白いかも。タワマン文学=虚構の、あとがき=本音対決を楽しむとしよう。