見出し画像

置き土産

始発が始まる時間。
新宿東口の広場付近では、家に帰れない事情のある男性が女性に声をかけることがある。
彼らの大体は夜職を生業としている人間だった。

アカネさんは帰宅するところだった。
声は枯れ、体が鉛のように重かった。
地下への階段を足早に降りた。

「すみません」

金髪の青年が現れた。
彼は人懐っこい笑みを浮かべて、擦り寄ってきた。
アカネさん好みの容姿であった。
「家に泊めてもらえませんか」
「営業ならお断りだけど」
「いえ、本当に泊めてもらうだけで大丈夫なんで。お金なんていらないです」
金銭を払わずに、この青年が傍にいてくれる。
お得感に、彼を自宅へと招いた。

「帰りたくなかったんで助かりました」
「なに。彼女と喧嘩?」
「まあ……そんなとこです。置いていきたくて」
「ふぅん? まぁいいや。私は寝るから、帰るなら鍵は玄関ポストに放り込んでね」
そう言って鍵を渡す。
布団に潜り込むと、追うように青年もあとに続いた。
2人は唇を重ね、ゆっくりと熱を育てた。
肌と肌の隙間に蒸気が溜まり、湿り気を帯びていく。
鼻の奥から頭の芯まで甘い痺れが生まれては弾ける。

「シャワー貸してください」

あと一歩のところ。
育てあげた熱を手放すように、彼は言った。
アカネさんが制するのも聞かずに浴室へ向かう。
水のさざめきを聞いているうちに、彼女に睡魔がやってきた。

起きると夕方だった。
はっきりしない頭でまわりを見渡す。
部屋には誰もおらず、夕陽に染まっていた。
玄関ポストを確認すると鍵があった。
溜息が漏れ出る。
汗を流そうと浴室へ向かった。

朝に青年が使ったままの浴室。
戸を開けると、水滴ひとつなくカラリとしていた。
洗剤等も動かした形跡がない。
洗濯カゴを覗いて見たが、使用済みのタオルすらなかった。

ーー使っていない? あの水音はなんだったの?

頭を働かせようと熱いシャワーを浴びた。
青年を招き入れたのが夢だとしたら、鍵がポストに入っていたことに説明がつかない。
体を洗うと、果たせなかった情事の痕跡もあった。
おかしい。何かがおかしい。
混乱する中、体をすみずみまで洗う。
おもむろに、排水溝の掃除もと蓋に指をかけた。
「えっ……」
排水溝には、長い黒髪がとぐろを巻いていた。
青年は金髪であったし、アカネさん自身は茶髪のボブ。
このような髪はあるはずがなかった。

浴室から出てみると、洗面台、台所、床のそこかしこに黒髪が落ちている。
これは数日経っても変わらなかった。
部屋には目立つほど黒髪が落ちているし、浴室の排水溝には毎日絡みついている。
いくら掃除をしてもすぐに現れる髪。
起きると指に絡まっていることもあったという。

――置いていきたくて

アカネさんは、この言葉に疑問を感じていた。
この言い方。誤ったわけでも、偽りでもなかったと気付く。
彼はここに何かを置いていった。
おそらく、その何かは『彼女』なのだろう。

アカネさんはもうこの部屋には住んでいない。
そして、もう6年ほど髪を伸ばさずにいるという。
彼女は髪が指に絡まる感触が嫌いだと話してくれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?