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慰安婦 戦記1000冊の証言2 「分隊」続々

 石川が南京慰安所を見学していたころ、上海でも慰安所設置を急いでいた。
 昭和12年11月、陸軍衛生部見習士官として応召した軍医麻生徹男の証言。昭和13年のはじめ、上海での出来事。

年齢若く肉体的にも無垢

「当時、上海派遣軍の兵站病院の外科病棟に勤務していた私へ、軍特務部より呼び出しが来た。何でも婦人科医が必要であるとのことだった」
「とりあえず同僚のもう一人の婦人科医と出かけて行った。命令にいわく『麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為、目下、待機中の婦女子百余名の身体検査を行う可し』と。
 ただちに私たち一行、軍医、兵隊それに福民病院の看護婦2名を加えた11名にて出かけた。これが『日支事変』以後『大東亜戦』を通じて、兵站司令部の仕事として慰安所管理の嚆矢となった」
「彼女らは『皇軍兵士』の慰問使として、朝鮮及び北九州の各地より募集せられた連中であった。
 興味あることには、朝鮮婦人の方は年齢も若く肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが、北九州の関係の分は既往にその道の商売をしていた者が大部分で、後者の中にはそけい部に大きな切開の瘢痕を有する者もしばしばあった。
 私はのちほど軍医会同にて一文を物して、この娼婦の質の向上を要求した。即ち内地をくいつめたような者を戦地へくらがえさせられては、将兵は、はなはだもって迷惑であると。
 中支方面に従軍せられた方で気付かれたことと思うが、南京、漢口等の将校クラブに朝鮮婦人の多かったことも、この辺の事情に起因していると思うは、あえて私の僻目でもなかろう。
 かくして上海軍工路近くの楊家宅に、軍直轄の慰安所が整然とした兵営アパートの形式で完成した。その慰安所規定に曰く、
1、本慰安所には陸軍々人軍属(軍夫を除く)の外入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持すること。
1、入場者は必ず受付において料金を支払いこれと引替に入場券及『サック』1個を受取ること。
1、入場券の料金左の如し。下士官・兵、軍属金2円。
1、入場券を買い求めたる者は指定せられたる番号の室に入ること、但し時間は30分とす。
1、用済みの上は直ちに退室すること。(以下省略)
 右のようにはなはだ無粋なやり方ではあったが、カミシモ商法の暖簾をかかげた」(1)

 慰安婦じゃなく「慰問使」と言われていた。また、「無垢」とは処女のことである。

 作家の永井荷風が、昭和13年8月、東京で、こんな話を聞いて、憤慨している。
「8月8日」「水天宮裏の待合叶家を訪う。主婦語りて云う。
 今春軍部の人の勧めにより、北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて、1個月あまり彼地に往き、帰り来りて、売春婦3、40名を募集せしが、妙齢の女来らず。
 且又北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋其他の費用のみにて少くも2万円を要す。
 軍部にては、1万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといわれたけれど、北支の気候余りに悪しき故辞退したり。
 北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧29軍将校の宿泊せし家なりし由。
 主婦は猶売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との連絡その他の事を語りぬ」
「世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言いながら、戦地には盛に娼婦を送り出さんとす。軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし」(2)

「勝手次第」だから、次のような証言も出てくる。

部隊長用倶楽部も

 南京攻略後、第6師団の野砲兵第6連隊などは、蕪湖に移動する。昭和12年12月23日、蕪湖に到着。以下、野砲兵第6連隊長の証言。
「速刻、内地に連絡し慰安婦を至急迎えた。日本女性と朝鮮人女性とが来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした」
 昭和13年5月に入ったが出動の様子はない。「そこで我々部隊長は旅団長の宿舎に集り、
 部下将兵には慰安の設備は整って無事であるが、部隊長には何の慰安もないから部隊長用の倶楽部を秘かに作る議がまとまり、先ずサービスガールを撰ぶことになった。
 日本人や朝鮮人は避けて、支那人の上流家庭の婦女子を充つることに一決し、地方有力者を介して物色したところ、美人4、5名を得た。倶楽部の場所も人の眼のつかぬ適当な処に求むることができた。
 いよいよ明日より開所することにした途端、5月24日安慶作戦に対する出動命令が下った。やむを得ず之を中止した。残念残念」(3)

 この蕪湖の慰安所に関係したのは、いつのころか。作家の伊藤桂一は証言する。
「なんとなしに朝鮮人慰安婦の相談役みたいな仕事?をしていて、軍務よりこの方に熱心だったが、20人ほどいる女の中で、気質の悪いのはいなかった。
 素朴なのだ。よく稼ぐが抜けているところも多かった。なかには子供を中国人にあずけて育てているのがいた。
 借金を抜き、金をためて帰国するときの女の喜悦の表情は忘れがたい。二、三、商船の下級船員と結婚したのがいるが、彼女らにとっては玉の輿なのである」(4)

 部隊長の「残念」感覚が通常精神となっていった昭和13年ころ、慰安所設置を断った歩兵第60連隊第7中隊長の証言。
「この頃聯隊から慰安所設置の話があり、私はそれを断った。部下から或は恨まれたことと思うが、若い私には、当初一寸精神的に受け入れる気にならなかったのである。
 某日、突然、中隊長室に師団の参謀が来られ、『慰安所が要らぬという中隊長はお前か』と怒られたようなほめられたような会話を交わしたものである。
 しかし、慰安所は中隊長の意思とは関係なく、間もなくやって来た」(5)

 このように、日本軍は「慰安婦分隊」を急増していったが、一部地区では「慰安所厳禁」の方針もとられた。
 昭和14年6月、中国江西省にある著名な廬山を訪ねた僧侶の証言。
 廬山に着くと、「兵隊さんが来て『廬山登山者への注意事項・廬山地区警備隊佐渡部隊』というパンフレットをくれた」。
 それには、「4月22日、治安維持会の結成、市場の開設等、復興の機運漲り、市民は皇軍に感謝の意を捧げつつも、占領後、日なお浅く、残敵はいまだ山谷、または第三国権益の蔭に潜伏せざるやも保し難ければ、警戒を怠るべからずということと、
 廬山は霊山だから、カフェー、小料理店、慰安所その他風紀上、もしくは軍の威信、体面上有害と認るような享楽機関を置くことは許可しない」などと書かれていた。(6)
 その後も慰安所厳禁方針が維持されたのかはわからない。

慰安所なくせの勧告

 ところで、日本軍の「慰安婦分隊」設置に関して、国際的には「慰安所自体をなくすべき」と勧告されていたのだ。
「昭和6年の春、国際連盟から婦人児童売買実態調査団をむかえた。一行は日本にくる前に半か年ほど東洋における婦女売買の実状調査をすませて来朝した」
「官庁を調査訪問、新橋の芸妓学校、吉原の妓楼見学をはじめ、救世軍や矯風会を直接訪問して事情聴取し、廃娼運動家たちとの親睦歓迎会など盛りだくさんの日程であった」
「この調査団の報告書が昭和8年に発表されたが、東洋諸国の実状について500ページ余の大部のものであった」
「日本政府としても『これらの少女を得る周旋業者が非合法、または秘密の方法を用いる必要がない日本』と記載され、世界に公娼国であることを喧伝されたのは痛手だったろう。
 勧告文では『国際的協力が必要なこと、東洋諸国では人身売買業者が婦女にたいし絶大な力をもっているから、これらの婦女の救済には、彼らの取引市場たる公認妓楼を撲滅せねばならぬ」などとあった。(7)

 慰安所は日本軍の「公認妓楼」である。
 昭和19年2月、満州・大肚子の兵站勤務第74中隊員の証言。
「引率外出で映画『奴隷船』を見に行った。幼稚な映画手法であったが、明治の意気込みをくみとることはできる。明治5年神奈川県令大江卓が中国人をマリア・ルーズ号から解放した映画であった」(8)
 明治5年、ペルー船マリア・ルーズ号に乗せられていた中国人苦力231人を「奴隷だ」として解放し、中国に帰国させたのだ。
 このとき、ペルー船側が「日本の芸娼妓も奴隷じゃないか!」と反論する。それを受けて、明治8年、芸娼妓解放令が出て、日本の芸娼妓も解放されたはずだった。
 大肚子にも、慰安婦がいたのだろうか。

《引用資料》1、麻生徹男「上海より上海へ」石風社・1993年。2、永井壮吉「荷風全集第24巻(断腸亭日乗・4)」岩波書店・1994年。3、藤村謙「変転せる我が人生」日本文化連合会・1973年。4、伊藤桂一「戦旅の手帳」光人社・1986年。5、「江南の雲」編集委員会「江南の雲―歩兵第60聯隊の記録・中支篇」私家版・1971年。6、梶浦逸外「誠和」私家版・1976年。7、久布白落實「廃娼ひとすじ」中央公論社・1973年。8、兵站勤務第74中隊大肚子会「兵站勤務第74中隊―記録編」私家版・1978年。

(2021年12月5日まとめ)

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