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「断捨離」はそんな気持ちのいいものではなくて、身を切る痛みを必ず伴う

片付けや掃除って奥深い。つらい。一筋縄ではいかない。

うちってもうてんで片付けができない血筋でして。
家族みんなできない。
片付けができないから掃除の習慣もない。

(ちなみに私は、哲学やるために地方から上京してきて、祖父と叔母と暮らしています)

私もおうちの片付けはできなかったけど、学校の私物とかめちゃくちゃ整理整頓できてたタイプ。
なんか、公の場では普通に綺麗好きなのだけど、「おうち」だけは別だと思っていたんですよね。
綺麗好きを発動する場ではないと思ってた。

飲食業とサービス業のバイトをしているので、棚卸とか清掃やって物の管理も真面目におぼえました。
今はインスタにいくらでも片付け術とか掃除術が載ってるし、自分の部屋に限っては好きなように色々試しました。

そうしてある日、当たり前に散らかってたおうちの見え方が変わった。
ちびちび身につけてた掃除や片付けのコツが全部繋がった。点が線になった。

で、気がついた。
片付けや掃除、特に片付けは、「あ、これ学校のお勉強みたく、公式を知ってるかどうかで差がつくやつだわ」と。
その公式?は、言語化できそうならいずれ詳しく書きます。

ていうか、何回も何回も片付けして、ゴミを捨てて、掃除してたらさすがに色々気づく。
人の分まで片付け掃除繰り返してると切なくなるよ。
自分の物だって捨てるのって大変だもん。
「高かったのになぁ」とか、
「思い入れあるけどなぁ」とか、
「これ一体何ゴミだよ」とか、
「きったね!!!!」とか、
「回収再来週じゃん…」とか、
「これ回収有料なの!?」とか。

人の物だと尚大変。
明らかにゴミだと思ってゴミ袋に入れといたら「捨てないで!」って言われたり、そっと戻ってきてたり。
げんなりもするし、相手にとっては大事なんだろうから胸も痛むし。

んで、一通り断捨離すると、
服や化粧品、かわいい雑貨、輸入食品、本、なんでもいいんですけど、とにかく物を買うシーンで、捨てるときの光景が目に浮かぶようになる。
捨てやすそうかどうか、捨てるまで使い倒せるかどうかで選ぶようになる。

(そうして、家族がお金出してゴミを買ってるように見えるようになって切なくなる、と。)
悲しいかな、自分で捨てないとこれってわからない。たぶん。

物を買うこととおうちが汚いことって全く無関係なように思っていたし、現にうちの家族なんかは何の関係もないと思っているはずなんですけど、実際は直結してる。
物の管理だからね。
発注と納品と棚卸は直結して循環してるもの。

物を買ってるその段階で満足は得られるよ。「自分はこういうのが好き」みたいなことだけなら自覚もできる。
でも、見ていれば満足するのか、使い倒すことで満足するのか、その物に何を求めてたんだとか、
どういう管理が自分にはやりやすいとか、そもそも管理したくないんじゃないかとか、
そういうことは管理してみて捨てるまでやらないと自覚できない。

人生「コスパ」で考えるのは味気ないけど、払いすぎてるコスト(もちろんそれに賭けた労力や失った時間も含む)を目の当たりにすると割とちゃんと絶望する。

でも絶望の結果、得るものは大きい。
自分の「好き」や「心地いい」が形になっていくわけですから。
部屋、服、物、髪の毛などなど、総合的に今の自分、過去一好き。

とりあえず今日書きたかったのは、
「叔母の服が多すぎてキレそう。」