見出し画像

映画「罪の声」を観て

映画を観に行く時は、或る程度自分の中で課題を切り上げてからいく。いわゆる「目の前の人参」状態である。今回は原作を読んでから行こうと決めていた*ので、さらにハードルがあがっていた。原作は文庫本でも500頁以上ある大作である。が。課題山積みのままの12月のある日曜の朝に突如思い立って読み始めた。内容に引き込まれ1日で一気に読み終わった。そして翌日、レイトショーで映画を観た。

上記*には理由がある。2020年は私にとって「野木亜紀子さんRespect year」だった。あの分厚い原作をどんな風にまとめたのか。私にとっての最大の見所はそこだった。果たして予想以上の内容だった。

ネタバレになるのは避けたいので、個人的に感じたことを書き記す。「MIU404」にはまりまくった2020年6−9月だった。ここで完全に野木Fanになり「アンナチュラル」「獣になれない私たち」も観た。その後9月になって「LIFERS」と「PRISON CIRCLE」を観た話は前回書いた。実は後者を3月に観る予定だった。社会的事情で半年待たされたおかげで、坂上監督の2作を同時に観る幸運に恵まれた。「罪の声」を観た私は「2020年の(自分にとっての)4部作が完結した」と感じた。それくらい肚に落ちた。

犯罪をおかすというと、自分とは全く違う場所にいる誰かを想定しがちである。けれども根底には様々な理由がある。こちら側とあちら側は紙一重であるとよく感じる。特に小児科一般を診ている立場からすると、完全な悪意ではなく”ただ、よく分かっていない”だけで、子どもに決定打を与えてしまう親が存在することに気づく。当方が親ではないから、直接育児に携わっていないから、こういう批判的な物言いをすると思われるかもしれない。否、そうではない。本当にボタンひとつ掛け違えただけで、その上に次の出来事が重なっていくだけで、ずれは次第に大きくなっていく場合がある。その責任は誰かにあるだろうか? 実際には、それらを受け入れた子どもが、軌道修正しない・出来ないままに大人になっていく過程で、時に大きな代償を払うことになる。ここでずれに気がつければ、まだ良い方かもしれない。気づかないまま、その子どもがまた親になっていく。それは表現しがたい闇の蓄積でもある。そこにある希望は何か。ということを「罪の声」を観て深く考えさせられた。或いは綿々と続いてきたかもしれない連鎖を、次の世代に向けて自分が断ち切ると思えるかどうか。希望はそこにあるのかもしれない。そして希望を抱かせる契機は、おそらくは他者である。

この映画を観終わって、終電で帰った。広い映画館には4人しか人が居なかったし電車もガラガラに空いていた。いかにも”2020年の暮れ”らしかった。帰り道に私自身がもっとも強く感じていたのは「それでも自分の人生を決められるのは、自分しかいない」ということだった。様々なことに巻き込まれたり、理不尽な想いをしてもなお、自分の人生を自分が決定するという気概を持って生きていきたい。そう想ったら何かしずかに奮い立つものがあった。それぞれの心の中に燃える灯は、みなそれぞれに違うかたちをしているに違いない。それでも。選択肢が1つではないことを、ただ黙って指し示すことの出来る大人でありたい。希望につながる道を呈示できる人でありたい。クリスマスイルミネーションに輝く人気のない寒い夜道をそんなことを想いながら家路についた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?