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『絶触』を見て(書き手:緒方優紀乃)

 今回の人間の条件は本番前にtwitterで恋人からみた女の短い映像を配信していた。個人的な話だが、私はあの作品を見て、とても不安な気持ちで劇場に向かっていた。あの映像に映る、女を愛おしいと思う主人公の目線があまりに苛烈に私に映ったためだ。そこに表現されている男にとっての女との思い出の価値の大きさだったり、それで人の胸を痛くさせたりするのは、あの映像の本当に素晴らしいところだと思う。だから、以下は私の個人的な鑑賞態度の話である。

 年齢や周囲の人生のフェーズが進行するにつれ、自身に二度とそんな風に人を鮮烈に愛するような尊い瞬間はもはや訪れないのだろうという予感が最近私にはある。そのことを諦めつつも、そういった情熱が人並みに自身から失われていくことを悲しく思っているような自分が、あの映像に表現されているような作品をどう受け取めることができるのか、不安だった。
 すでに失ったと諦め蓋をしたような気持ちを掻きむしられることを恐れながら、しかし一方で、むしろそれを期待するような気持ちで、劇場に向かった。

 実際に劇場に入り、あの映像を半ば他人事のように見つめる男の姿を見て、初めてあの映像の出来事が地に足がついたような感覚があり、安心させられた。あれは所謂“美しい思い出”が急に現実味を帯び、男にとっての現実が初めて観客に共有された瞬間だった。こうした裏切りはかなり素晴らしい仕組みだったと思う。こういった序盤での新情報は観客に男に対する関心を段階的に持たせ、さらにこの劇全体を通じての女に対する男の目線を、観客が男と共有することができるからだ。

 劇中で男は、香の死を出発地点とし、彼女にまつわる記憶や自分の人生を振り返っていく。香の死を常に引力の原点としながらも、自らの人生のマイルストーンを寄り道しながら辿っていく。彼の過去の思い出たちは全て、地面に散乱するガラクタたちの様にろくでもないものばかりだ。現在地から“あの時の自分”を見つめ直すという禊を通過することによって、やっと男なりに香の輪郭を見出し、男はとうとう黄泉の国で女に出会うことができる。

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 前半は、香をはじめとする男以外の周りに生きた人間が不在であり、あくまで男から見た世界を描いている。そんな男を見て、勝手に香の不憫さを思いやり、男に”テメエぶちのめすぞ”という強い怒りが湧いてくることも少なくなかった。しかし、不思議なことに劇を見るにつれ、いつの間にか観客は男に絆され、男と同じ世界を見て、男と同じように心を動かされていく。全く納得いかない。悔しい。どんなにクズで彼なりの誠実さすら許せなくても、あまりにそれが彼なりの誠実さですという態度で正直に表現されているため、こちらも彼を理解しようと歩み寄ってしまう。(そこで絆されてしまうのは私も一人の人間として甘いところがあるのかもしれないが、)この様に登場人物(ひいては作家かもしれない)に起こっている出来事やそこにある情緒をまるで自分に起こっているかの様に観客に共有することは、まさに演劇をはじめとする表現のプリミティブな到達目標の一つである。人間の条件の作品が面白く多くの人に支持されているのは、そういう演劇の基本的かつ欠かすことのできない価値がいつでも担保されているからだと思う。(もはや人間の条件は、学生演劇の枠におさまらず、小劇場で活躍する演劇団体の一つだと言えるが、)作者の独りよがりに陥りつまらないと言われることも少なくない駒場演劇において、このことを乗り越えている作品はそれほどないと思う。(独りよがりがいけないことなのかどうかという議論はさておき、少なくともドラマを描く演劇においてこの要素は不可欠なものだと私は考えている。)この点について、作と演出を担うZ R君の技術を本当に尊敬している。

 また、人間の条件を見ていると、所謂”生産性のないろくでなし”の人間に対して“それでいいのだ”という温かい態度を常に感じる。それは憐憫などではなく、彼ら自身がまさに生きる様をありのままを受け入れて描こうとする、作演出の受容性によるものだと思う。そんな人間らしさは外から見れば滑稽なものであるが、これらを受け入れ描写するという一歩引いた演劇的表現の中で、逆説的にあらゆる人が包括されていると思う。
 生産性や能力を争い、忙殺される日々の中で、このような視点を人は忘れてゆき、自らを含む “ダメ人間”を排除しようと駆り立てられていく。しかし、人間の条件では、あらゆる“ろくでなし”が作品中で受容されており、観客もいつの間にか彼らを受容している。そして、このことは、観客自らをも受容することに繋がっていると思う。彼らの作品の観劇後にどこか救われ安らいだ気持ちになって帰宅できるのは、観客が主人公を通じて自らを受容し、主人公の経験する愛情や葛藤を愛することができるからである。
 演劇とはこの世界の片隅であくまで一個人や団体が行う営みに過ぎないが、特に昨今の社会でこの様な態度を取った作品が作られ公表されたことに一つ意義を感じた。

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 また、音楽に乗せて役者たちが動かされている華やかなシーンは人間の条件の持つ手法の一つである。例えば、『ふれろ』『死ぬほどサンキュー、I love you。』など従来では、あくまでドラマの文脈に従事するシーンだったが、今回はドラマ一辺倒ではなく、身体それ自体として、かなり見応えがあるシーンとして独立していたのが大変興味深かった。ZRくんの劇作に全く新たな可能性の萌芽を見出した。ありきたりではなく、あまり見ない振り付けや動きを役者がしていた。今回身体がよく動く田中くんのような俳優が出演したことは人間の条件にとって非常に意味のある変化だったと思う。
 今後ZRくんがアングラ四天王の一人、佐藤信氏の元で勉強するという話を聞いているが、今回片鱗を見せていた舞踏などのアングラのメソッドが彼の作品にどう取り入れられ、どう変化していくのか、人間の条件の創作の一ファンとしても、駒場演劇同期の友人の一人としても、とても楽しみに思っている。

(文・緒方優紀乃、画像・6D, 奥村直樹)

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