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生まれつき体のない子どもたちについて:人間の条件『絶触』評(書き手:植村朔也)

 舞台奥のスクリーンで、どこかのカップルがスマホで撮影したのだろう、プライベートな印象の、愛らしく緊張感のない映像が流れ始める。些細な生活のひとこまを間断なく映し続けるそれを、どのように観ればよいのかはわからない。愛しいと思えばいいのか。といってもその困惑は、他の家庭のホームビデオを見るときの、その受容者が持っていてしかるべき親密さから疎外されてある、あの隔絶の感情ばかりによるのではない。
 この女性が、野田恵梨香という役者の演じる登場人物にすぎず、したがってそこにある愛は演出されたものに過ぎないことをこちらは初めから了解しているだけに、その愛のグロテスクをどれだけ真摯に受けとめてよいのかがわからないのである。

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 続けて「男」(樽見啓)が入ってくる。彼はアクティングエリアの境界すれすれ、客席の目の前に立ちモノローグを始めるのだが、このモノローグもまた不可解だ。カオリ、という名前の恋人を亡くしてしまい、悲嘆に暮れている旨を話してはいる。ここで、先の女性の映像がカップルの私的な記録だったろうことが改めて確証される。だが、発話はぶっきらぼうで淀みを含んでいる。声も大きくはない。単に聞き取りづらいばかりではなく、ふてくされているようにも見え、こちらにまともに語り掛ける気があるようにも思われないような調子なのである。恋人の死を語る口調として、そこには重さが欠けていてリアルがない。だから、カオリの死について、彼と観客の間で信憑性を帯びて共有されるものはひとつとしてなく、ただ死に向かう言葉の軽さの印象だけがそこに残る、そういう話しぶりなのだ。
 2021年の8月という記録的な月に公演が執り行われたこの舞台は、客席と舞台の間に透明なビニールのカーテンをひいていたが、それは感染症への対策にとどまらない、ある種の「遮蔽」としての意味を帯びてもいただろう。しかし、いわゆる「第四の壁」を単に可視化したものとしてそれを受け取ることはできない。冒頭に置かれた男性のモノローグは観客に対してやけに直接的で、そのような舞台の嘘をあてにしてはいない。その膜は透明でありながら言葉を迂回させ、奇妙に自己閉鎖した世界を完結させている。
 ここで『絶触』という題が改めて思い返されるとともに、先の映像にあった最大の違和感の正体が明らかになる。それはカップルのプライベートな時間の記録でありながら、ただ女を対象として客体化し、フレーミングする視線だけがあって、フレームの手前にある男性の身体はいつまでも不在だったのである。

 その後、男はカオリのいる地中奥深くの黄泉の国へと、目立ったドラマもなくあっさりと潜ってしまい、「父」(黒木喬)、「兄」(田中賢志郎)としてキャスティングされた筋肉質な二人の男に出会う。
 作品を貫いているのはある種のダンディスムである。先に示した、男の煮え切らず曖昧な語りは、恋人の死を受け止めきれない「男」の弱さを発露するものでもあるが、どこかに真率な心情の開示を回避する気取りがある。
 筆者は今日の東京の小劇場演劇シーンにおけるモノローグの奇妙な性向を指して「『独り』語り」と名付けたことがある。小田尚稔の演劇に典型的なその語りは「目の前の誰かを想定しているというよりは、頭の中の思考をごろっと外に出したような、独り言みたいなもの」 だが、その孤独な語りは自らを率直に伝達し、共有することを図る演技上の<文体>によって、真の孤独を免れている。一方で、『絶触』におけるモノローグにはそのような<文体>がない。恋人を希求する孤独の感情の漠然とした発散がただ発散としてのみあって、それはいくらか役者の修練の不足から帰結しているかもしれないにせよ、ここではスタイルの不在こそが演技のスタイルとして自覚的積極的に選択されているようなのである。

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 それから、「父」・「兄」としてキャスティングされた男二人は、もしそうであるなら黄泉の地での男との再会を言祝ぐべきであるのに、初めから当然のように「男」と合流する。そして「父」―「兄」―「男」をめぐる葛藤関係は、生前の記憶を想起する現場においてのみ展開される。つまりドラマの弁証法的展開を促す対立関係はあらかじめ抑圧され、ほとんど回避されているのである。
 だから、『絶触』の演技形式は、もはや争うべき父も兄も持たず、恋人の喪失にまっとうな反応を返すこともできない、行き場なく空回りする個我のリアリティを捕らえたものとして理解できる。死地に赴く道程の簡単さと、明らかにテレビやYoutubeといったメディアの在り方にそのシーン展開を基礎づけられた黄泉の表象とは、このモダニティのどん底における生と死の交換可能性をこそ示そうとしているのだろう。実際、先に見たように、男の存在は恋人との愛しい記憶の風景の中で、あらかじめ排除されているのである。
 強く苦言を呈しておきたいのは、こうしたダンディスムが、男性と女性の世界とを截然と区別し、後者を対象化・客体化する視線によって初めから前提として築かれ、またその対照性、対象性が最後までほとんど揺さぶられることのないままに「絶触」という主題が提起されてしまう点だ。そこでは「絶触」の主題は男性性の典型的な自己反省の型に終始しており、人間のほんとうに深刻な絶望が描き出されてはいないように思われる。
 展開としては、ぶつ切りの断片的なシークエンスが次々に生起していくのだが、目立った脈絡は見られない。テレビのチャンネルをザッピングするように場面は簡単に入れ替わっていく。『絶触』は制作メンバーがそれぞれ選んだ楽曲を軸として構成されたという。法外の法へと徹底的に従属することがダンディスムの要件だが、ここでは実際に楽曲群が作品の基底となり、舞台の進行をドライブしている。音楽につられてダンスが始まり、身体が踊り出したからには何かが起きるだろう、そういう風に展開するのだ。
 同じ筋肉質でも、どっしりとした体格の黒木とひょろりと背の高い田中とでは身体の性格は大きく異なり、ウェットスーツがその体格差をきつく強調する。その異なる二つの身振りの切れ味は『絶触』の素晴らしかった点のひとつだが、二人に挟まれる樽見は踊ることに明らかなためらいや苦手意識を見せる。男は忘我的な踊りにかまけることもできない。そもそも、ダンスといっても動きは全体として抑制が効いていてドライだ。ともかく、こうした踊りがシーンの結節点となって筋を駆動していく。
 逆に言えば、筋を展開させる動因は物語や登場人物の行動のうちにはほとんど内在していない。音楽のポテンツに誘発されたシーンの勃発と、その冷たい弛緩とが淡々と持続する。
 そして、この「弛緩」こそが『絶触』の最たる特異性を示している。それは自己破壊的なまでにクールなのだ。
 エドゥアール・マネは筆の筆触をありありと残し、キャンバスの物質性を強調して絵を描いた。絵画が透明な窓ではなく、ひとりの具体的な肉体の前に掛けられた一つの板であること、そこに嘘はつけないからだ。
 同じように、彼らは演技の嘘を正直に告白してしまう。シラケた空気や調子は舞台の不思議な通奏低音としてこれを支え、シーンの間には音楽のない長い沈黙がたびたび挟まれ、演技にも休止符が繰り返し打たれる。しかしそれは、先に確認したようなリアリティ(の不在)のための演出をすでに超えている。観客が目の前にいるにもかかわらず平然と演技をしているという、その奇妙で特異な演劇という状況のイリュージョンをあまりにも漂白してしまうからだ。漂白を超えて立ち上がる舞台特有の質感に手を伸ばそうとしているのだろうこうしたクールさは、作品で描かれる空転するダンディスムを自ら体現して、粋でさえある。またそれゆえに、脆く破滅的でもある。その点で『絶触』は、作品自体がほとんど類例のない異色の決闘となっている。

(文・植村朔也、画像・6D,奥山直樹)

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