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人間の条件 母の誤謬シリーズvol.1『巣』評(書き手:植村朔也)

 「母の誤謬」というシリーズ名の冠されたこの舞台にしかし母はやってこない。
 大学にもいかず浪人や留年を重ねて、未来が見えないながらになにか行動を起こすでもなく、さらにはバイトもせず親のすねをかじり続ける、まあ、どうしようもないといっていい男たち三人が汚く狭いアパートの一室に一緒に暮らしている。しかもその親たちは犯罪や宗教に手を染めていて頼りにならない。だから彼らの遠隔寄生生活はその破綻が約束されている。さて、お金を稼いでいないので家賃が払えない。隣室に住む大家の女に取り立てられて、お金を稼ごうか稼ぐまいかどうしようかと言いながら全くどうするつもりもない彼らのぐだぐだを描くことに物語前半は終始している。しかもその有様は、どうやら三留し親に勘当されつつある作・演出者こと樽見啓の私生活を反映したものでもあるらしい。
 こうして筋を書き出してみると、なんというか、勘弁してくれという感じだが、それでも舞台から目が離せないのは、彼らの生活の自己破壊的な傾向がむき出しで現れているからだ。むき出しで現れているというのは、つまり、表現内容が表現形式に食い込んでくるということだ。人を組み伏したり全力疾走したりと、アパートを再現したごく狭いスペースには見合わない過剰な運動がつぎつぎ繰り出される。舞台にはごみがまき散らされていて、演者はそこを乱暴に歩くのでペットボトルなどは容赦なくベキバキ音を立てるし、時折小道具が客席の方にぶっ飛ばされてくる。冒頭からオナニーやらセックスやらの卑猥な言葉が喚き散らされ、一方で男たちはゾンビがどうのイーストウッドがどうのとかいうナードな話題で本気の口論をする。喋り口も乱暴で、少し訛りのある聞き取りづらい早口が飛び交い、威嚇するかのような大声が放たれる 。その乱暴な空間は一気に客席の空気を呑み込んでしまう。しかも呑みこまれた先で露わになるのは男たちのむき出しの弱さでもあるから、舞台と客席の間には場の勢いと同情的な共感の相乗効果で結束していく親密な共同体が築かれる。この一体感は作品の私小説的な性格と小劇場特有の「狭さ」によっていっそう強固に確保される仕掛けになっている。
 さて、最初に「この舞台にしかし母はやってこない」と書いたがそれは嘘である。というのも男たちの母を代理する存在として、これといった理由もなくなぜか彼らを初めから受け入れてしまう女性が登場するからだ。それは大家の妹である。彼女が母性を集約的に体現する存在であることは、「作品紹介」として団体の公表する、彼女のつぶやきらしき以下の言葉にも明らかである。

「しばらく姉のアパートで暮らすことになりました。
二階の隅に男3人で住んでいる部屋があって、私が見ている間は起きて動いているようです。
ゴミとか服とかマンガが床で一緒になっていて、寝るのは押し入れかかびた布団で。
弱い人たちだから私が面倒を見ないとやっていけないみたい 。」

作品が描いていたのは、「弱い人たちだから私が面倒を見ないとやっていけないみたい」というだけの理由で面倒を見てくれる、可愛らしい女性に支えられた男たちのその日暮らしと、その破綻だった。大家が妹と歯ブラシを共有し、さらに彼女にクンニリングスの手伝いを強要しているのを男たちはうっかり耳にし、目にしてしまう。彼女は男たちに安らぎを与えるおおらかで優しいまったき母などでは当然なく、むしろ姉にモノ同然に扱われる脆弱な存在だった。しかも彼女は姉の人間としてのどうしようもなさ、弱さを受け容れようとした結果、性行為を強要されても無抵抗を貫いている。彼女が男たちの面倒を見るのもあくまでその延長にすぎず、母性の発露どころか身近な存在への無抵抗と不感症に由来していたことが、ここで明らかになる。そしてその事実は、樽見演じる男に強姦されても彼女がなお無抵抗を貫くことで、さらに確証されるのだ。
 男たちが部屋でぐだぐだと繰り広げるお決まりの遊びがある。互いに互いの親を演じあうことで、親とどう交渉するかシミュレーションするのである。この劇中劇、劇中エチュードの導入が巧みなのは、その遊びがどれだけ繰り返されようとステレオタイプから逸脱しえない、固定的な属性として「母」が演じられ続けるからだ。自分一人の思考からは紡ぎえない物語の可能性を導出するためのエチュードという形式が、かえって男たちの想像力の限界を鮮やかに描き出してしまうのだ。大家の妹ももちろんその桎梏を免れはしない。だから「母の誤謬」というシリーズタイトルの「の」という助詞は、連体修飾格であると同時に同格でもある。

 人間の条件という団体の舞台を初めて観劇したのは昨年2022年の夏に上演された番外公演vol.1『絶触』で、続く今回の『巣』が二回目だから、私は同団体のイレギュラー公演を立て続けに観てしまったことになる。そして『絶触』という作品の重要性が、今回の『巣』を観ることでようやく理解できたように思う。
 冒頭に書いたように、母を主題としながらも、物語が描く時間内において『巣』の「舞台にしかし母はやってこない」。しかしゴドーと違っていずれ来る母の到来は約束されている。それも破滅的な仕方でだ。機能にまで還元された母は、その当然の権利として、もう養って行く訳には行かないからあとは勝手にしろと、自らの「不全」を言い渡しに来るに決まっているのだ。
 破滅の手前のモラトリアムが荒々しく形にされていて、若さという武器が戦略的に、十分に行使されているから、いまの人間の条件は活気に満ちていてたしかに人を惹きつける。しかし、学生演劇の段階を経て継続的に劇団を運営していこうという野心、展望と、この戦略とは根本的に矛盾してしまう。青年期の脆さの表現を継続的に方法化していくことはそもそも欺瞞を孕んでいる。作品を作るがゆえに脆い位置に留まるということも生じてくるからだ。「弱い人たちだから私が面倒を見」ようと言ってくれる母、とは第一に観客の喩だったわけである。私は『絶触』以前の人間の条件の作品を観たことがないから、これはそれこそあくまで乱暴な憶測にすぎないかもしれないのだが、同団体がいままさに直面しているのはこのディレンマだろう。
 というのも、『絶触』と『巣』という作品に共通するのは、私生活や内面の発露で以て作品を生み出すという従来の制作回路に、いかに外在的な要因を新たに組み込むかという問題意識だったからだ。批評を書いているときにはその理由が十分にくみ取れなかったから大きくは取り上げなかったが、団体が『絶触』のPRポイントとしていたのは、その戯曲が既存の楽曲群に触発される仕方で書かれたことだった。そしてシナリオは死後の世界を舞台とし、トラウマとエモーションが自在に到来する抽象性の高い舞台だった。これらはいずれも個人の生活半径に限定された想像力を飛び越えるための工夫と見ることができる。さらに『巣』にいたっては作・演出の座が主宰のZRから樽見へと引き渡された。いずれにせよ、個人の思考半径を越えて制作を継続していくための方法がここでは模索されている。『絶触』では着想源の積極的な外在化によって、そして『巣』では制作のエージェンシーの引き渡しによって。
 これはあまりに安易かつ素朴で、見高な提言であるかもしれないが、人間の条件が取るべき道はフィクションの継続的な信頼と洗練だろう。実際『巣』で振るわれた構成力・演技力は称賛に値するものだった 。若き私生活の表出という武器を手放させてくれるものは虚構の強度のほかにないし、そのポテンシャルを自ら信じ、磨き上げていくうちに、団体がどのような歳のとりかたを辿りたいか、その答えは自然と導き出されるはずだ。
 そして『巣』という作品は、以上のようなディレンマが、不自然に解消されることなく、そしていまだ形式化して欺瞞に陥ることのない、鮮やかな若さの発露という仕方で形をとるがゆえに、まっすぐに人を惹きつけ、それだけに危険な、人間の条件にとってきわめて重要な上演となっていただろう。

(文・植村朔也、画像・6D)


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