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けっきょく「おもしろい」とは何なのか? あと三人称で書け



はいどうもー……

……

……みんな観た? 俺は当然公開直後に観た。そして悲しみに打ちひしがれた……なんてことだ……人類の未来を救うべくサラ・コナーが遂に帰還したっていうのに、それでも人類は救われなかった……パルプの神よ、いったい何がいけなかったというのですか……!?

……っていつまでも落ち込んでてもしょうがないんで早速『デス・ストランディング』はじめたんだけど、誰がなんと言おうと俺はこれをすごい傑作だと思います。いや確かに監督監督って呼ばせてるくせに相変わらずカットシーンがいちいち意味分かんねえ上に長え会話が多すぎてプレイの最中で一番つまんねー時間になりさがってるのは著しく不満(自分が監督だっていう自覚があるんなら潔く有能な脚本家を別に雇えと言いたい)だけど、自分でプレイヤーキャラを操作する部分が衝撃的に楽しい。他の欠点が全部吹き飛ぶ勢いで楽しい。なんだこれは。やってることはただの「お使い」なんだけど、その「お使い」が再発明されてて、えっちらおっちら転びそうになりながらカーチャンをしょって荒野をとぼとぼ歩くだけでめちゃくちゃエモーショナルなのが伝わってくる。これなら意味分かんねえ会話なんかほとんどカットでもゲームとしては問題なかったんじゃない?

っていうか正直俺もプレイして初めて気付かされたんだけど、「お使い」ってゲームじゃクソ要素の代名詞みたいな言葉になってるけど、よく考えたら例の「はじめてのおつかい」みたいな番組みたいに、ただの「お使い」でもその「お使い」の扱い方によっては番組観てる視聴者が爆笑したり号泣したりするコンテンツになり得るし、イライジャ・ウッドが指輪捨てるだけのお使いが普通に素晴らしいコンテンツなんですよね。俺も最近はじめてのおつかい系で涙ぐむようになって加齢を実感してる。まあとにかく、監督はヴィデオゲームの「お使い」を刷新し、荒野を進む孤独な旅路という地味極まるプレイにエモーショナルな要素を詰め込むことに成功した。これははっきり言って偉大だと思う。そういうわけで俺は悲しみを癒やすべく残りの週末でゴリゴリプレイしようと思った矢先、俺んちのTVがぶっこわれてプレイできなくなった。ふざけんな馬鹿。それで仕方なく空いた時間でこれを書くことにした。いつこの記事が完成するか分かんない(俺の記事は長いやつだと20時間くらいかけて書いてる)けど、TVの新調は記事を完成させてからにする。

んで今回もみんなには俺の暇つぶしに付き合ってもらう。冒頭の件についてだけど、観終わった俺は悲しいと同時に混乱した。何で俺はこの作品をおもしろいと思わなかったんだ? おもしろいと思えなかった俺が悪いのか? おもしろいって結局なんなんだ?

というわけで俺は「おもしろい」を俺なりに言語化することにした。逆噴射先生も言ってたアティチュードの明確化だ。俺はあほだし他人からあほ呼ばわりされても平気なんで、あほでも分かるシンプルな理屈を追求するしそれしかできないけど、頭良いやつらが頭いいやつにしか分かんない話をするよりもずっと役に立つと確信してる。

あ、言っとくけど今回は容赦ないネタバレが含まれる


要するに「おもしろい」とはどういうことか


俺は考えた。おもしろいやつとおもしろくないやつの違いを一言で言ったらどうなるか。んで考えてみたら単純なことだった。

たとえば、おもしろいホラーっていうのは要するに怖いホラーでおもしろくないほらーっていうのは怖くないホラーだ。おもしろいアクションていうのはスリルとか興奮が伝わってくるアクションで、つまんないアクションは画面が派手でもなんか淡々としてるやつだ。俺は恋愛系の作品は正直あまり興味ないけど、多分恋愛にまつわる喜びとか悲しみとかが観客や読者に伝わってこないと単に知らん奴らがファックしてるだけの話になるんで俺が観るときはファックシーン以外はスキップすると思う。

それでだ、自分の人生で実際にチェーンソー殺人鬼に追いかけられたいだとか爆発寸前の爆弾を目の前で見たいなんて思ってる人間は多分いないし恋愛なんかで悲しい目になんかあいたくないのが普通。いても人類に占める割合はすごい少ないはず。なのに人類は、わざわざチェーンソー殺人鬼の恐怖や爆弾解除タイムリミットの恐怖を味わいたいがために劇場に足を運び、あるいは大枚はたいてソフト買って長時間費やしてプレイしたりする(俺はCoDも買ったけどマルチのバランスが納得できない上に頻繁に90ms超えのクソPINGサーバに繋がれるせいでシングルキャンペーンやっただけで放置してる)。

つまり、答えは完全にシンプルだ。観客とかは恐怖やらスリルやら興奮やらの感情を求めているんであって、結局フィクションがおもしろいかどうかは観客が求めていたり時には求めてなかったりする感情が満たされるかどうかにかかってる。一言でいえば

「おもしろい」とは感情が十分に刺激されることだ

だから、

作品をおもしろくするには、徹頭徹尾、感情にフォーカスし続ける必要がある



んー何か思ってたより調子でてきた気がする。この調子でシンプルな鉄則を明文化しつづけれるか? もう少し方法論に踏み込んだらどうなる?


観客や読者の感情を刺激して満たすためには、登場人物の感情がきちんと表現され、その感情が観客とかプレイヤーに伝わらないといけない

そのためには、ストーリー上どの登場人物のどのような内面の動きにフォーカスするか、狙いを意識的に絞らないといけない(し、内面にフォーカスする登場人物を増やしすぎてもいけない)


あー何か分かってきた。マリエットというかマッケンジーデイビスは新キャラとして登場したとたんに完全にレプリカントでカラテが凄いから格好よかったんでその時点では最高だと思ってたけど、マリエットとダニーとの間でなんか色々シリアスに悩ませるのが余計だった。サラ・コナーの葛藤と、サラとダニーの関係性に焦点を絞ってそっちに尺を割くべきだったわ。マリエットは基本格好よくて強いだけかと思ったら急にポンコツになるんでおもしろいみたいな未来の知識がある狂言回しキャラに徹するべきだった(常にシリアス一辺倒で悩んでるキャラだと、ラストで自ら命を捨てる展開が逆に盛り上がらないという面もある)。それによく考えたらダニーが未来の司令官本人だってことをマリエットが終盤まで隠すのを含めて未来の情報を他人に隠す意味が全くない。マリエットが出てきたとたんにダニーに「司令官! 司令官!」って未来について訳わかんない説明をしながら見た目とは裏腹にワンコじみてつきまとうせいでダニーが迷惑してるところにREV-9がやってくる上にサラ・コナーまでやってくるっていう第一幕にして、以後、マリエットは未来について隠し事なしでも全く問題なくて、ダニーが最初困惑しててもストーリーを通じて最終的には司令官としての自覚を持つっていう展開は可能だった。


って何か具体的な批判みたいなのに足つっこんでるから路線を元に戻す。おもしろい作品とおもしろくない作品を比較したときに、一言で指摘できる違いは何かっていう観点から考えてみるのがいいっぽいです。続けてやってみる。


おもしろい作品はクライマックスで盛り上がる、けどおもしろくない作品とかおもしろくなり損ねた作品は終盤盛り下がる

そして、盛り上がるとか盛下がるっていうのは、要するに感情の刺激の強弱? というか振幅って言ったほうがいいかな。だから、

一番強い感情の刺激がクライマックスに来るようにストーリーを通じて計画的に、どういう順番でどういう感情を刺激するのかを考えつつ、感情の刺激の度合いを強めていく必要がある

同時に、作品のクライマックスとラストを通じて、観客とか読者にどういう感情を伝えるのかを明確に意識している必要があると同時に、感情の高まりの順番とタイミングをコントロールする観点から、観客への情報開示の順番とタイミングを考慮しなければならない


それでね、悩んだけどやっぱりこれだけは言っておきたい。ジョンを殺すこと自体はまあいい。だけど、ジョンが死んだことを開幕冒頭で明かしてしまったのは大失敗。冒頭からサラ・コナーのモノローグと回想から始まるので観客は「T2無駄だったんかい……」みたいな気持ちになるし、続けて今のサラ・コナーの話が始まるのかなと思ったらサラローグに続けて始まるのは新キャラの話になってたせいで、俺はサラ・コナーの再登場までどんな気持ちで観てればいいのか分かんない困惑も味わってた。冒頭モノローグはダニー視点のメキシコプロローグにすべきだった。

それと今気付いたんだけど、未来から来たマリエットは当然サラ・コナーについて未来の司令官を鍛える人物だって予備知識あったはずだよね? だからマリエットは伝説のターミネーター狩人サラ・コナーに出会ったら事情を洗いざらい話して協力を仰ぐはず。観客にはサラ・コナーがT2以降もターミネーター狩ってたっていう来歴は伝わるものの、なんでサラ・コナーが微妙に煮え切らない態度なのかが謎として残る。んでマリエットの話によると未来を救うためにもう一人謎のテキサス野郎に会う必要があるというのでメキシコ国境越えの旅が始まる……っていう展開でよくないですか?

そして遂にテキサスでのT-800との対面……観客としてはここでシュワが出てくるのは予想通り……ところが突如としてサラ・コナー激昂! ショットガンをぶっ放し、なおも到底収まらない激しい怒り! 怒り! 怒り! 制止しようとするマリエットやダニーまでぶん殴りながらサラ・コナーは涙とともに咆える!

「こいつは、ジョンを、殺した!」


っていうタイミングで回想シーンを入れて初めてジョンが死んだことを観客に情報開示すべきだった。ここのタイミングで情報開示されることで、観客はそれまでのサラ・コナーの態度とかを遡って思い出して「そうだったのか!」と洞察する。さらに立て続けでシュワが理想の父・理想の夫として暮らしてきたみたいなことまで明かされるので、T2でサラ・コナー自身が「T-800はもしかしたら理想の父かも」みたいな自問自答をしてた皮肉と合わせて、ますますサラ・コナーを打ちのめす……皮肉にもシュワの人間のふりをした充実した人生の裏で、自分は全てを奪われ、全てを無意味にされ、今まさにあらためてその事実を思い知らされた……

あ、今気付いた。

負の感情の振幅を大きくするには、皮肉の要素が含まれると効果的

この対比でいくと

正の感情の振幅を大きくする際に、皮肉の要素を入れるべきかどうかは慎重に検討したほうがいい

そして

登場人物の感情を最も強力に観客に伝える方法は、観客が自ずと登場人物の感情を洞察するように仕向けることだ


で話を戻すと、こういう流れのこういうタイミングで観客に衝撃の事実を伝えとけば、全てを奪われたサラ・コナーの怒りと憎悪と悲しみとむなしさの極限みたいなのが観客にばっちり伝わる。というか、観客は嫌でも無意識のうちにサラ・コナーの感情を洞察してしまう。そうすれば、そこから終盤に向かってサラ・コナーがどん底の負の感情を克服して、最終的にシュワと共闘することを決断し、サラ・コナーとして再生し再び未来を救うっていう流れを丁寧に描くことで、クライマックスが超熱く盛り上がったはず。なんでそうしなかった。

んで、こういう例から鉄則まではいかないけどストーリーをおもしろくするために一般的に通用する定番の方法が導き出されると思う。

主人公を容赦なく奈落に突き落とせ(タイミングを見計らって)

クライマックスで主人公が最大の葛藤を乗り越えたり最大の決断をしたりした結果再生して勝利するとアツい

主人公を変えるきっかけが仲間の最大の犠牲だったり、変化した仲間の姿を見て自分自身の真の姿を思い出す展開だったりするとアツい

旅の中でサラ・コナーがダニーを変え、結果覚醒したダニーが今度はクライマックスでサラ・コナーを逆に諭して変えるっていう順番と展開にすればサラ・コナーもダニーも十分キャラが立って盛り上がるし、マリエットもサラ・コナーを変えるために命を捨てるんだっていう側面を強調してれば展開はもっと盛り上がってた。んで、再生したサラ・コナーが、再び未来を救うために、ピンチに陥ってたシュワを葛藤を乗り越えて自ら救ったことで最終的な勝利が訪れるみたない展開でよくないですか?

要するにですよ、サラ・コナーがなんか妙にあっさりしてて、ショットガン一発ぶっぱなしたり拳銃でシュワ試し撃ちしただけであっさりと沈静化して、その後は何かニヒルな態度をとってるだけなんで、その後のアクションが派手でも展開がなんか盛り上がりとか熱い展開とかが欠けてる印象になっちゃったというのが俺の結論です(なんか暗すぎて何が起こってんのか分かんないシーンも長かったけど)。


三幕構成をなめないほうがいい


で、ここまで書いてあらためて思うのは、逆噴射先生がその重要性を語ってた「三幕構成」っていうのは、本当に一度本気で勉強したほうがいいってことです。なぜか。俺があほなりにあほでも分かる単純な理屈を積み重ねて作品を分析した結果分かるのは、三幕構成っていうのは実のところ、あほでも分かるおもしろさの原則に合致してるってことだからです。

みんなも考えてみてください。ジョンが殺されたみたいな衝撃の事実を明かすのは中盤の転換点のタイミングで行うべきみたいな三幕構成の定石をはじめとして、三幕構成で推奨されるナラティブの原則を意味もなく裏切れば裏切るほど、作品のおもしろさは事実として損なわれてる。それを今回の悲劇が証明してる。

要するに三幕構成っていうのは神話英雄伝説とかの昔から現代まで通用してる、あほでも分かる単純な理屈の積み重ねから人類が導きだした鉄則の集大成の一つなんだと俺は今回改めて納得したし、みんなも軽い気持ちでそういう鉄則を崩すのはやめといたほうがいいってことです。

それにね、不思議なことに三幕構成とかの仕組みを意識しながら映画とかを分析するように観るとね、何故か分析せずにぼけっと観てた時よりも、映画とかがずっとおもしろく感じられるんですよ、マジで。みんなも試しにやってみてください。修行にもなって一石二鳥なんでマジでオススメします。それと、そういう修行で特に俺がオススメするのはここ10年くらいのドリームワークス・アニメーションの長編作品(短編やテレビシリーズとかは正直出来が劣るのであまり観る必要なし)です。この会社は2000年代後半くらいからかなり脚本力のてこ入れに注力してて、俺の評価では、一見似たような傾向のディズニー/ピクサーやイルミネーションみたいな同業他社を圧倒的にぶっちぎって現時点の脚本力がダントツ一位の製作会社です。日本では何故か劇場公開されずにビデオスルーになる作品が多いですけど、Netflixに加入してれば主要作品はあらかた観れます。いや本当に、子供向けだと思い込んでスルーするのは勿体ない! ていうか、これが今回一番のお役立ち情報かもと思った。




さてそれで、俺は今回、さらに具体的なパルプ文体の問題についても言語化したい。つまり、話をおもしろくするためには、感情にフォーカスし続けて登場人物の感情を適切に読者に伝えないといけない。そのために効果的な文体は何かっていう問題だ。

俺は今回改めて考えた上、結論に自信を深めたので結論から書く。


一人称の文体で書くのはテクニックとして難易度が高すぎるから止めとけ


で、結局、消去法で

パルプを書く上での文体は、食わず嫌いせずに三人称を基本にしたほうが得策

と結論づけた。なぜか。簡単に言ってしまえば

主人公一人称の文体だと主人公自身の感情をうまく読者に伝えるのが死ぬほど難しい

からです。

考えてもみてください。主人公が一人称で、自分がいかに悲しいかを語っても、語れば語るほど、読者のほうは「いい加減もう分かったよ」みたいなリアクションになるだけで、主人公の感情に読者の感情が動かされるってことから離れてく。要するに感情が伝わらない。読者は無意識のうちに「そんなに自分の感情をペラペラ喋るやつなんかいねえだろ」って感じて不自然とか嘘くさく感じちゃうからです。だからといって、逆に主人公が自分の感情について語らないと、今度は読者から「こいつには感情ってものがないのか」と思われてしまう。要するに主人公一人称の文体はいわゆる「信頼できない語り手」の問題とかその他のメタフィクショナル領域にまたがる問題がしつこくしつこくまとわりつきすぎるんで、面倒くさすぎて死ぬ。実際一人称のハードボイルド有名作品みたいなのもあるけど、たいていは最初っから主人公は感情を見せない冷静タイプにして割り切ってるやつが多い(チャンドラーとか)。

んで、この問題をどう解決すればいいかっていうと、ぶっちゃけ

アツい盛り上がりを狙うなら一人称にはさっさと見切りをつけたほうが早い

と俺は思います。一人称を使うのは、主人公じゃない奴が一人称で主人公のあれこれを報告するワトソン方式みたいな場合とかに限ったほうが楽だと思う。

で、次に問題になるのは、「じゃあ三人称ならどういう文体で書けばいいのか」ってことなんですけど、結論から言うと

心情描写を原則排除して、地の文を客観カメラにしてしまう

のが鉄板。これ、実はとっくの大昔に既にパルプの巨匠が実践して証明してる。その代表が、みんなも多分一度は聞いたことがあると思うんですけど『マルタの鷹』です。

リンク張っといて何だけど、今はあらすじ読まないでくれると嬉しいです。

あ、あと日本語訳も出てるけど、俺は正直手に入りやすいバージョンの日本語訳にかなり不満があるのでAmazonとかへのリンク張るのはやめておく。何が不満なのかというと、日本語訳をしたやつは、何で『マルタの鷹』がこんな文体なのかっていうことを分かってないとしか思えない言葉のチョイスが目に余るからです。具体的には、映画とパルプとの間には歴史的にすごい強い関係があって、その関係がパルプの文体に決定的に影響してるのに、そのことを見落としてるとしか思えない。

だからちょっと昔の映画とかにも関連して説明する。

20世紀初頭の商業映画の発展の勢いはめちゃくちゃ急速で、1920年代のサイレント映画の時代には既に、何をどういうふうに撮影してどう編集したら何が観客に伝わるかみたいな映像の文法(モンタージュ技法とか)のテクニックは既に完成して、ハリウッドは早くも黄金時代を迎えてた。

んで、20年代とか30年代のハリウッド黄金時代は大手数社のスタジオが配給も制作も独占して丸抱えしてて、俳優もスタジオと専属契約状態みたいになってたんだけど(その後ハリウッドメジャーは独占禁止法か何かの裁判に負けてスタジオシステムは終わる)、その当時は脚本は脚本の作りかたも現在と随分違ってた。

どういう作り方かというと、当時は脚本家もスタジオ専属状態だったんだけど、実はそういうスタジオの脚本家は自分でストーリーを考えずに、ストーリーを考えるのは外部委託した作家っていうケースが結構あった。んで、仕事を請け負った作家はストーリーを考えてストーリーの概略(っていう訳語で適切なのかどうかは正直自信がない)を書くんだけど、その概略っていうのが実は、「この時この登場人物はこんなことを考えていてこういう理由でこういうことをした」みたいなのを全部テキストにした、概略といいながら実際にはめちゃくちゃ長いものだった。んで、その超長い概略を受け取ったスタジオの脚本家がそれを元に実際の撮影に使うセリフとト書きの脚本を作るって言う、やけに手間がかかる脚本作成プロセスだった(ちなみに、そうしてできあがった撮影に使う脚本も、今とは違って役者の口調や仕草を事細かに指定する、役者の演技の自由とかアドリブとかを基本認めないものだった)。

なんでそんなめんどくさいことをしてたのか、っていうのが、映画の文法とか映像の技法とかに関係してる。

映画っていうメディアの一番の特徴は、舞台の芝居とは段違いに映画の芝居は解像度が高いってことです。これが何を意味するかって言うと、もし舞台だったら、舞台の上の役者がデカイ声で大げさな抑揚をつけて説明台詞を言ったり大げさな身振り手振りをして心情を表現するところを、映画ならクローズアップとかが使えるので、役者の微妙な表情の変化やちょっとした仕草をきちんと撮影して編集すればそれだけで登場人物の心情を観客に伝えることが可能だ。大げさ演技いらねえ! むしろわざとらしい演技は邪魔! ってことになる。そのことにフィルムメーカーがかなり早い段階で気付いてたんで、超詳しく登場人物の心情をテキストにしたストーリーを書く→超詳しく表情や仕草を書き込む脚本を作る、っていう順番で脚本作ってたんですよ。

で、こういうプロセスの中でストーリー執筆を請け負ってた作家っていうのはたくさん居て、フォークナーとかの有名どころも含まれてる。『マルタの鷹』の作者ダシール・ハメットもその一人(『マルタの鷹』出版の翌年には『市街』っていうタイトルでハメットがストーリー担当した映画も公開されてる)。んで、そういう作家たちの一部もやっぱり気付いた。「表情や仕草を細かく客観的にスクリーンに映しただけでも登場人物の心情が観客に伝わるっていうのは、小説にもそのまま応用できるんじゃね?」

で、ハメットは1929年、『ブラックマスク』誌(何の捻りもなくボンクラな最高の雑誌名だ)に『マルタの鷹』連載開始して、翌年に単行本出版された。

で、どうなったか。完全に心情描写を排除して客観的な描写しかしないっていう、そんなの難解じゃない? と思ってしまう『マルタの鷹』は普通にパルプとして読者に大受けした上、今ではアメリカ現代文学史上最重要の作品の一つとされてる。

はい説明終わり。じゃ、ついでに、実際の『マルタの鷹』のテキストがどんなもんか、序盤の一場面を紹介してみます。

あらすじはこんな感じ。サンフランシスコで相棒のマイルズ・アーチャーと探偵事務所を営む主人公サム・スペード(ちなみに秘書の名前はエフィ)。アメリカの私立探偵なので、サム・スペードも上半身が逆三角形な上に肩の筋肉がめちゃくちゃ盛り上がってて、悪い笑顔が印象的みたいなごろつき寸前のタフガイだ。さてある日、謎の美女が事務所を訪れて、とある男(妹の駆け落ち相手とのことだが……)を尾行してほしいと依頼する。探偵コンビのうち相棒のマイルズが尾行を実行するが、なんとマイルズは尾行中に何者かによって射殺され、しかも尾行対象の男まで滞在先ホテル近くで射殺される。早速夜中に刑事たちの来訪を受けるスペード。警察の見立ては、尾行対象者がマイルズを殺した→その復讐のためにスペードが尾行対象者を殺した、というものだ。痛くもない腹を探られたスペードは取り敢えず刑事を追い返すが……と、こんな感じで事件の発端となった波乱の一夜が明けた翌朝、スペードが事務所に顔を出す場面だ。


 スペードが翌朝10時に事務所に到着した時、エフィ・ペリンは自身のデスクでその朝の郵便物を開封中だった。そのボーイッシュな顔は日焼けしていてもなお青ざめている。彼女は抱えていた封筒の束と真鍮のペーパーナイフを置いて言った。「あのひとが来てます」その抑えた声は警告めいていた。
「あいつをここに来させんなって頼んだだろ」スペードは文句を垂れた。同じく抑えた声。
 エフィ・ペリンのブラウンの両目が見開かれ、その声がスペードと同じく苛立った。「そうですけど、その方法を聞いてません」彼女の両目がすがめられ、肩が落ちた。「幼稚なマネは止めて、サム」エフィはウンザリした声で言った。「わたしがあのひとの相手を一晩中してたんですよ」
 スペードはその娘の傍らに立ち、手を娘の頭に乗せて、娘の髪を分け目から撫でつけた。「悪かった、天使様。俺は別に……」執務室のドアが開き、スペードは話を中断した。「ハロー、アイヴァ」スペードは出てきた女に言った。
「Oh、サム!」女は言った。
 ブロンドの30をやや過ぎた女だった。その美貌は5年ばかり前に峠を過ぎたか。体つきはたくましくも素晴らしく整っていて優雅。服装は帽子から靴まで黒ずくめだった。取り敢えず喪に服したといった雰囲気。話しかけられて、彼女はドアから離れて立ちスペードを待った。
 スペードはエフィ・ペリンの頭から手をどけて執務室に入り、ドアを閉めた。アイヴァは彼に駆け寄り、悲しげな顔を上げてキスを待った。スペードが抱き寄せる前に彼女の腕が彼の体に巻き付いた。キスを終え彼はアイヴァをそっと離そうとしたが、彼女は彼の胸に顔を埋めてすすり泣き始めた。
 彼はアイヴァの前屈みになった背を撫でつつ言った。「可哀想にダーリン」その声は柔らかかった。その目は、部屋の反対にある元相棒のデスクを横目で見つつ、怒っていた。彼は唇をかんで苛ついたしかめっ面になり、彼女の帽子を避けるように顎を横に向けた。「マイルズの兄貴にはもう連絡したか?」彼は訊いた。
「うん、今朝こっちに来た」その言葉はすすり泣きと口に押しつけられた彼のコートのせいで不明瞭だった。
 彼は再び顔をしかめ、頭を傾けてこっそり自分の腕時計を見ようとした。その左腕はアイヴァの背中に回され、手が彼女の左肩の上にあった。袖は腕時計を覆わぬ程度にめくれていた。時計は10時10分を示していた。
 女は彼の腕の中で身動ぎし再び顔を上げた。その青い目は濡れ、丸く、見開かれていた。その口は湿っていた。
「Oh、サム」彼女は呻いた。「あなたが殺ったの?」
 スペードは目を剥いて彼女を凝視した。彼の骨張った顎が落下した。彼はアイヴァから手を放し後ずさりしてその腕から逃れた。彼はアイヴァをにらみつけて咳払いした。
 アイヴァは彼が離れても腕を上げたままだった。眉根を寄せて軽く細められたその目を苦悩が覆っていた。湿った赤い唇が震えた。
 スペードはとげとげしく一声笑い「ハ!」そして黄褐色のカーテンがかかった窓に向かった。彼はそこにアイヴァに背を向けて立ち、彼女が近づいて来ようとするまでカーテン越しに中庭を見続けた。そして彼は突如として振り向き自分のデスクに向かった。彼は座り、両肘をデスクに乗せ、両のこぶしで顎を支え、アイヴァを見た。彼の黄色がかった目が細められた瞼の奥でギラついた。
「誰が」彼は冷たく訊ねた。「そんな冴えたアイディアを吹き込んだんだ?」
「あたしはただ……」彼女は片手で口を覆い溢れ出る涙を拭った。彼女はデスクに近づいてきたが、その足取りは軽く確かで優雅、その黒い室内履きは極端に小さくヒールが高い。「怒らないで、サム」彼女はオドオドと言った。
 彼は嘲ったがその目はギラつかせたままだ。「ダンナを殺したのね、サム、怒らないで」彼は両手を打ち鳴らして言った。「ジーザス・クライスト」
 アイヴァは白いハンカチで顔を覆い、声を上げて泣き始めた。
 彼は立ち上がり、アイヴァのすぐ背後に立った。彼は両腕で抱きしめた。彼はアイヴァのコートの襟から覗く首筋にキスした。彼は言った。「今すく、アイヴァ、やめろ」彼の顔は無表情だった。アイヴァが泣き止むと、彼はその耳元に口を近づけて囁いた。「今日みたいな、ひでえ日にここに来たらダメだろ。バカだな。居たらダメだ。帰ったほうがいい」
 彼女は彼の腕の中で振り返り彼に向かって訊いた。「今夜は来るの?」
 彼は静かに首を振った。「今夜は無理だ」
「近いうちに?」
「ああ」
「いつ頃?」
「なるべく早く」
 彼は口にキスし、アイヴァをドアに連れて行き、開いて、言った。「じゃあな、アイヴァ」そしてアイヴァを送り出し、ドアを閉め、自分のデスクに戻った。
 彼はベストのポケットからタバコ葉と巻紙を取り出したが、タバコを巻かなかった。彼は片手に巻紙を、片手にタバコ葉を持って座ったまま、死んだ相棒のデスクをただ見つめ続けた。


……どうでした? 読者が「スペードのアホは相棒のヨメと不倫ファックしてたんかよ!」って思わずツッコみながら読んでしまう、意地の悪いユーモアとかが伝わったでしょ? スペードがアイヴァと不倫ファックしてたみたいな背景事情から、スペードがもうアイヴァに飽きててめんどくせえと思ってるのにアイヴァはそれに気付かずに自分を悲劇のヒロインだと思い込んで悲劇ヒロインムーブに浸ってる、んで、読者は笑えるけど、スペードとしては笑うに笑えないドツボに嵌まってる……もしアイヴァがサツにくだらねえこと喋ったらまた面倒の種が……マイルズ、あんたのヨメとヤったことの仕返しを今頃するのかよ……って、ただ無表情でぼけっと死んだ相棒のデスクを眺めるスペードの心の声みたいなやつまで、説明も心情描写もなしでちゃんと読者に伝わるんです。んで、こういう場面が序盤にあることで、女にだらしなくてちょっと間が抜けてるっていう、スペードの単なる暴力タフガイとは違う一面が読者に伝わり、読者は図らずもスペードに興味を持ってしまうという仕掛けになってる。パルプの元祖にして既に完成されてる名場面だと思います。もしこういう場面をスペード視点一人称で書けと言われたら……俺なら尻尾巻いて逃げます。

ちなみに、さっきちょっと出てきたフォークナーってやつは、映画の「フラッシュバック」を小説に持ち込んで、説明もなしに地の文の途中でいきなり時系列が飛びまくるという代物を書いた。これはめちゃくちゃ読みにくかった。俺は二度と読みたくないしマネするつもりもない。


地の文をメソッド野郎にしろってことか?


で、ここで今度は超でかい難問に俺は遭遇した。地の文を客観カメラにするっていうのは、理屈としては分かるけど、それはつまり、登場人物がどういう心情の時に、どんな表情をしたりどんな口調で喋ったりどんな仕草するかみたいなことを全部考えろってこと? それじゃ今度はリアルで自然な演技みたいなものを勉強しなきゃなんないのかよ! ふざけんな!


……この問題をどう解決するかは追々考えてみます。

それじゃ、またねー