ジョーカーポスター

『ジョーカー』を今すぐ観ないやつは腰抜け


ヤバい。期待と前評判を大幅に上回る大傑作。もう今年ベストはこれで決まりでしょう。これを更に上回る作品が出てきたら自分は多分腰抜かすと思います。スリービルボードとかローマを観たときに感じた「あっこれアカデミー賞決まったな」感(結局どっちも作品賞は取れなかったけど)を何倍にも増幅したア決感に襲われた。興奮が収まらないので興奮のままに書きます。

とにかくどこが凄いのか。自分としては以下の二点が最大のポイントだと考えました。以下手短に。

なお、自分としてはネタバレ避けてるつもりで書きますけど、少しでもネタバレ的なのが嫌な人は、こんな記事は読まずに劇場に行ってください。


1 ジョーカーがいる


まずそもそも、ジョーカーがいるのが超ヤバい。自分でも語彙的にどうかとは思うんですが、とにかく実際にジョーカーがいるのでヤバいとしか言いようがないんです。

んーどう説明したら伝わるかな。過去にもバットマンの映画でジョーカーが出てきて、それがジャック・ニコルソンの怪演だとかヒース・レジャーの怪演だとかで今でも語り草になってるじゃないですか。ジャレット・レトの出番が少なすぎるとか。あれでマーゴット・ロビーが可愛くなかったら映画館が焼討ちされてたところですよ。ハーレイクインみたいなマンガキャラをあんなふうに実写に落とし込むセンスの良さって、なんで日本映画には全く存在しないんですかね。

話を戻すと、ジャック・ニコルソンとかヒース・レジャーの演じたジョーカーって、それぞれ画期的でアメコミ映画の新境地を切りひらいたみたいな高い評価が確立されてて自分もそれには異論はないです。でも、それらの映画の中に出てくる過去ジョーカーは存在感とかそういうのが色々凄いですけど、じゃあそのジョーカーには「現実感」というか、「現実に居そう感」みたいなのがあったでしょうか? ってことです。それらの過去ジョーカーって、やっぱりその「現実にいそう感」ってバットマンと同じくらい、限りなくゼロに近いと思うんですよ。どんなにジョーカーの存在感とかが凄いって言っても、バットマンがなんだかんだ言ってヒーローとして活躍する、なんだかんだ言って結局のところヒーロー映画のフィクション世界における悪役とかヴィランとしてしか存在が許されてないみたいな。

それがですよ、今回の『ジョーカー』のジョーカーは、その「現実にいそう感」を極限にまで高めてる。これが凄いヤバい。

『ジョーカー』の出だしは意外なほどに地味で「あれ? これって昔の映画?」とか「予想通りの『社会に打ちのめされた憐れな男の物語』系を突き詰めてやる方向性かな」みたいに思っちゃうんですけど、第一幕のクライマックスで主人公がジョーカーに転落するきっかけとなる事件が起きてからがヤバい。そこから映画のクライマックスに至るまで、徐々に、だけど絶えず主人公が変貌を続け、そしてジョーカー度を深めていく。観客としては、やがて「もう一体どこまでジョーカーするつもりだ!」ってなるくらい。

そして、そのジョーカー度が深まるというか高まるというか、とにかくそういう度がどんどんエスカレートするのに、常時「現実にいそう感」が全く損なわれないんですよ。その結果、最初は主人公の哀れさに同情してても、やがては主人公に恐怖するようになっちゃうんです。

それで、その恐怖がものすごい。過去ジョーカーがどんなに殺人とか爆破とかしても、じゃあ観客が過去ジョーカーを本気で怖がるかっていうとそういうことは全然なくて、フィクションのお約束ごととして悪役がヴィランムーブしてるってみんな心の底で理解してるから安心して過去ジョーカーや怪演とかを楽しめるじゃないですか。

それが、今回の『ジョーカー』では、そういった観客を安心させるための逃げ場みたいなのが徹底的に排除されてる。だから、主人公のジョーカー度が極まりかけてきた段階に至ったときには、もう主人公のことがとにかく恐ろしい。ジョーカーによる殺人を前にして、観客は震え上がる。

それでですよ、過去ジョーカーとかアメコミの中のジョーカーは大抵手下をいっぱい集めてゴッサム炎上とかをするのでバットマンが戦うことになるんで、観客や読者は心の底では「なんでこの手下どもは揃いも揃ってジョーカーみたいなイカレた奴の手下になってるんだ?」っていう疑問は感じつつもまあそんな疑問は野暮だよなみたいに自発的にそういった疑問を封印して作品を楽しもうとするじゃないですか。

ところが、今回の『ジョーカー』では、ジョーカーの「現実にいそう感」が極限まで高まってる結果、ジョーカーのせいでゴッサム炎上シークエンスまで「現実に起こりそう感」が極限まで高まってる。アメコミ映画の範疇とかそういうのを完全に通りこしたゴッサム炎上しそう感の恐怖に自分は打ちのめされました


2 ヒーロー映画とかに喧嘩売ってる度が史上最高


自分らは近年公開されてるアメコミ映画は、予告編からしてこりゃダメだなみたいなやつは除いて大体観てるんですけど、正直に言うとアメコミやアメコミ映画にはそこまで思い入れみたいなのはなくて、アメコミ映画を観るのは(主にMCUの)アメコミに興味がない人がほとんどなのにアメコミ映画には観客をいっぱい呼ぶっていうフランチャイズの確立から色々勉強したいっていう動機が半分だし、グラフィックノベルも、誰を主人公にしたシリーズかみたいなことよりも、むしろライター(脚本家)指名で買ってる場合がほとんどです。

それで自分らが可能な限り追いかけてるライターの一人がガース・エニスっていう人で、最近Amazonがドラマ化して話題沸騰した『ザ・ボーイズ』の原作の人で、自分らは原作というか原案になったグラフィックノベルの日本語訳が第三巻までしか出てなくて続きが出版される気配がないのが悲しかったり、同じくガース・エニス原作の『プリーチャー』が随分以前から同じくAmazonでドラマ化されてて滅茶苦茶面白いのに全然話題にならないまま最近最終回を迎えたので益々悲しかったりしてます。

それで何が言いたいのかというと、このガース・エニス先生は、なんとヒーローものが大嫌いっていう、変わっているというかなんというか、よくアメコミの仕事をやってるなと感心してしまうんですが、実際ガース・エニス先生の作品ときたら、ヒーローとヴィランの戦いに巻き込まれてしまったせいで妻子が死んでしまったパニッシャーに向かってキャプテンアメリカが「I'm sorry」みたいに慰めの言葉をかけたせいで「何がアイムソーリーだバカヤロー!」みたいな勢いでいきなりパニッシャーがキャップの頭を拳銃で撃ち抜くのを皮切りにパニッシャーがマーベルのヒーローをことごとく殺し尽くす作品に始まって、とにかくイカレた奴らがとんでもない大騒動を巻き起こす基本アナーキーであると同時並行で深くて浸みるエピソードだったり超シリアスでハードボイルドなエピソードとかがごった煮になってる作品を書かれてて最高なんですけど、要するに『ザ・ボーイズ』のドラマが話題沸騰したりしてるのは、ついに時代がガース・エニス先生の問題意識とかに追いついてきたってことじゃないかと自分は思います。

ガース・エニス先生の問題意識、それは、アメコミだとヒーローとヴィランが延々善と悪の対決を続けてるけど、そういうお膳立てされた対立構造なんて欺瞞そのものじゃないか? ってことです。自分を悪人だと思ってる人間なんて現実にいるでしょうか?「俺はヒーローと対立する絶対悪だぜ!」って自認するやつが現実に存在するわけないだろっていう。

言われてみれば先生のご指摘はごもっともとしか言いようがなくて、自分はガース・エニス先生がヒーローものに喧嘩を売ってる度が最高の作家だと思ってたんですが、驚いたことに、『ジョーカー』は、自分が知っている限りでのヒーローものに喧嘩を売ってる度の最高峰を更新してきました。

どういうことかというと、『ジョーカー』は、ヒーローものに喧嘩を売るレベルを通り越して、「ヒーロー」っていう概念それ自体の欺瞞を暴き出して中指突き立ててるんです。詳しくはネタバレになるので言えないけど、ヒーローとは何かみたいなよくあるテーマそれ自体に対して、「ヒーローがヒーローなのは弱者の味方だから? ヒーローとして民衆に求められたから? ふーん」みたいな調子で、「じゃあジョーカーはヒーローじゃないの?」っていう恐るべき疑問を突きつけて、消費するために作り出されるヒーローと、それを消費するわれわれ観客の両方の欺瞞を、そして現実にぶっ壊れてしまったこの世界のぶっ壊れ度を暴き立てる。

これは本当にショッキングで、海外では一部の評論家が「ジョーカーを賛美したり擁護してるのがおかしい!」みたいな的外れな批判をしてるらしいですけど、そういう評論家の奴らは『ジョーカー』のショッキングな指摘にデリケートな神経が耐えられなくって明らかな誤読を元にした批判をしてるだけだと思います。

実際に鑑賞してもらえば一目瞭然なんですが、『ジョーカー』は本格的な意識的な悪事に走った以降のジョーカーを賛美したり擁護したりしてる部分は全くなくて、ジョーカーが英雄視されるかもしれないほどに壊れた世界のその壊れっぷりを観客に突きつけているだけです。しかも、同じようなテーマで作られた『タクシードライバー』とか『キングオブコメディ』とかの昔の映画(どっちもAmazonプライムビデオで観れます)からの影響を隠そうとしないどころか堂々とストーリーの下敷きにして、そういう映画が作られた時代から何十年もたった現在、世界の壊れっぷりが更にどれだけ進行したかを突きつけてくる。そんなショッキングな指摘を受けた人の一定数がスクリーンから目を背けて批判に走っちゃうのはまあ仕方ないかなとは思います。


真の男の真の覚悟が必要だ


とにかくです。この記事のタイトルには偉そうなことを書いてしまいましたが、正直自分の神経では『ジョーカー』の衝撃をきちんと正面から受け止めきれた自信がないです。

この作品は本当に怖い。「ジョーカー」という存在がいわゆる「キャラクター」の範疇を超えて血肉を備えた現実の存在として、紛うことなき恐怖を観客にもたらすとともに、現実の世界をどう捉えるかっていう世の中のものの見方とかそういう人間の精神を支える根本の部分を揺さぶってきます。

ですので、そういうヘヴィな映画に耐える自信があるという人は、是非とも劇場に足を運んでください。