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マレーシアと紡ぐ糸

私はいま、とても恥ずかしい気持ちになっている。
そして少しずつ、インプットをしている。

マレーシア在住12年目の、尊敬するMayahariさん(ご本名も知っていますが、note上のお名前で書かせていただきます)とは、2021年3月に思わぬ形で知り合った。

2019年に、Tan Twan Eng氏の二作目の小説『The Garden of Evening Mists』が、台湾のトム・リン監督によって映画化された。
2021年3月にはようやく大阪アジアン映画祭にて日本初上映され、私もそれを観に行った。

その感想等をTan氏とやりとりしていたところ、トム・リン監督に直接インタビューを行った日本人女性がいるということで、そのインタビュー動画がTanさんから送られてきたのだ。

それまで、マラヤの歴史、旧日本軍がマレーシアに侵攻した過去について、共に話せる日本人はまわりにいなかった。ましてTanさんの作品を認知している日本人はおらず、ネット上を探しても何の情報も出てこなかったから、私はびっくり仰天して、すぐにMatahariさんにご連絡した。

奇しくも桜が満開の靖国神社で引いたおみくじに、「分かってくれる人がいます」と謎に書かれていた、その日の出来事だ。いったい何のご縁だろうか。
ずっと一人きりだった世界に、突然仲間が現れた。

通訳やライフコーチのお仕事もされている彼女の活動は本当に素晴らしく、唯一無二のものだ。日本占領期にマレー半島で起きた出来事を、日本語と英語の両方で調査し、現地の方の視点から紐解き、語り継がれた事実を伝えていく。さまざまなバックグラウンドを持つ人々と繋がり、心を開いて話し合える関係を築いて、私たちが決して知ることのない物語を丁寧に、日本語で発信してくださっているのだ。

彼女のnoteには、日本人が知っておくべき過去が、思慮深く読みやすい文章で綴られている。優しくも厳しい、日本とマレーシアのリアルな関係がそこにはある。


このnoteの存在を、私はもちろんずっと知っていたし、記事を少しずつ読ませて頂いたりもしていた。
でも最初から一つ一つ、全てを読み込もう、という姿勢には、いままでなれていなかった。

どうしてだろう。
自分の真心が言葉のみに向かっていた、という事実はある。一冊の小説を訳しきるためにすべきことは山のようにあったし、その作業はいまも全然終わっていない。

私の『The Gift of Rain』の翻訳に対する思いは、「知ること」「届けること」と「エンターテイメント」を結びつけることの重要性を思う気持ちに端を発している。

旅行先、移住先として人気のあるマレーシアで、当の日本人の若い世代だけが、過去に起きたことを何も知らないという事態になっている。
知らないことが、傷つけることに直結してしまう。

そんな悲しい歪みを、責めるでもなく、ただ変えてくれるものがある。
恥ずかしながら、マレーシアを観光地としてしか認識していなかった、日本軍侵攻の事実すら知らなかった自分が、異国の人々の痛みに思いを馳せられるようになった。
教科書には載っていなくとも、こうしてもっと素晴らしい形で、言葉と物語の力が、何よりもTanさんの深い思想と真心が、伝えてくれる。
あとは言語の壁だけだ。

その事実に私は感動し、焦って、このまま放ってはおけない、と強烈に思ったのだ。それは進む道の先が一瞬で決まるような突風だった。

でもその私自身が、この本と翻訳のために読んだり調べたりしたこと以上に、分かる限りのことを知り尽くすというのは、不思議なことに、また別の話だった。


どうしてだろう。
思うに怖かったのだ。自分は本当に、実際に傷を負った人々のことを、心から想えるのだろうか。
私は物語を愛しているだけではないのか?
戦争を扱った物語に深く感動すると、「この物語は、もし戦争がなければ存在しなかったのだ」という矛盾に必ず陥ってしまう、ということは、以前のnoteにも書いた。

戦争を題材にした映画に涙して、心を揺さぶられる。そこにはもちろん意味がある。それによって、思いを馳せるきっかけができるからだ。けれども、その感動の源泉は、いったいどこにあるのか?
この恐ろしい矛盾については、少し思うところはあるけれど、まだ結論は出ていない。

無責任に泣いて、そのうち忘れてしまったらどうしよう。
自分ごとに思えなかったら?
淡々と読み進めてしまったら?

自分は優しさに欠けた人間なのではないかと、思うことがたまにある。

けれども、ひたすら翻訳を続けて、ようやくまわりの世界に目が行くようになったいま、自然な気持ちでMatahariさんのnoteを読みたいと感じたときに、そう感じられることの大事さに気がついた。

自分ごとに思えなかったら、一緒に悲しみ尽くせなかったら、それは酷いことなのか?

それはNoだ。自分ごとになんて思えるはずがない。そんなことができると思ったら大間違いだ。
ただこうして、心を寄り添わせたいと願う気持ちがあるだけで、思いは紡がれていく。
愛することとは、時間を割くこと。そんな言葉を聞いたことがある。


すべての悲しみを想ったりはできない。
身近な悲しみがピンとこないこと、遥か遠くの誰かを思って涙が出ること、人の心の働きなんて、あまりに頼りなくて、複雑でさまざまだけれど、
それでも想いたい気持ちがあるなら、
一つでも思いを馳せられる悲しみや痛みがあるのなら、そこに全力に向き合えば、一人の人間としてそれでいいんじゃないかと、最近は思っている。

Matahariさんの文章を読んでいると、その強さと優しさに触れて、自分が恥ずかしい気持ちになる。一冊の本のみと向き合っている自分に自信がなくなってくる。
でも、私が真心を尽くしてきたことを、否定せずにいてあげたい。
私にはできないことをしてくださっている、Matahariさんがいてくれて、彼女に出会えたことは、感謝すべきこと以外の何物でもないのだ。

私は、マレーシアに行ったことがない。
ずっと心の故郷のように思っていて、いつか必ず、クアラルンプールに、そしてペナン島に行きたい。Tanさん激推しの屋台グルメを沢山食べたいし、見たい景色が山のようにある。
Terima kasih(ありがとう=愛を受け取りました)の国。

それでも私は、Matahariさんのnoteを読ませて頂きながら、まだまだマレーシアには行けないと思ってしまうのだ。
もっと強くなりたい、学びたい。私自身が糸を紡いで、いつかその場所で、歴史と雨と風を感じられるときが来るように。

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