読書感想文 『「行動観察」の基本』
きっかけ
UX リサーチャー を志すにあたり、ユーザーの利用文脈・利用状況を自ら確認することの重要さを理解してきた。
実際に社内で DIY で行動観察をしたことにより、根拠と自信をもって提案ができたり、逆にアイデアに対して批判をすることができた、という経験があった。
本格的に社外に出て、実践の場に立つことを考えたときに、先人の知恵にあやかることで、事前の準備を整え、効果的なアウトプットを出せるなると考えた。
その結果、社内でも自分の活動がポジティブに受け入れられ、UX リサーチの活動が継続できる可能性を高めることができると考えた。
何れにせよ、行動観察の基本と書いてあるこの本を読んで、正しく基本準備を行おうという気持ちで本を手に取った。
気づき
行動観察を実施する大きな理由の一つは、結局これに帰結するのではないか、と思えた。
ユーザーのことを調べる場合、以下の調査方法がまず思い当たる。
アンケート:一方的コミュニケーション
インタビュー:インタラクティブだが、現場ではない
行動観察:インタラクティブかつ現場
この中で、アンケートおよびインタビューを実施した場合でも、ユーザーのことを知ることは可能であるが、それは実際に起きていることの 5% 程度しか担保できないとなると、ユーザーの行動の 95% を知らずにプロダクトを進めることになってしまう。
提供側の立場からすると、これはあまりに知らなすぎる。
逆にいうと、いままで行動観察を実施していないのであれば、95% の財宝を探し当てるジャーニーが待ってるとも言える。
ただ、行動観察にはコストがかかる。
リクルート、アポイント、移動、場所の確保、情報の処理etc. インタビューと比べても、実際に体を動かす時間が増えるため、二の次を踏む理由も確かにわかる。
まずは小さく初めてコストを最小化しつつ、上記5%云々の根拠とセットで、効果的なアウトプットを示せれば、行動観察は受け入れられる可能性が上がるのではないか。
これは前述の主張を強調する材料になる。
人間が注目できることなど、そもそも視野角からして、現実のすべてを捉えられないし、すべてを認知することもままならず、記憶するとなればなおさらである。
そう考えると、インタビューで得られる情報には限界があることがこの選択的注意によって示唆される。
ユーザーは注目していない情報について、正確に語ることは難しいが、観察者が第3の目となり、ユーザーの世界(文脈・環境)をつかむことによって、より正確なファクト認識が可能となり、ユーザーも気づいていなかったようなアイデアを得ることができるのではないか。
よくよく言われることとして、”ユーザーの想像を超えるモノを作ろう” とあるが、案外その解決策は行動観察にあるかもしれない、と楽観的かつポジティブが気持ちが湧いていくる。
僕が考えることが好きな理由は、もしかしたらここにあるのかもしれないと感じた。
僕のルーツとして、PUNK への傾倒がある。
他者に自分の行く末を握らせない、自分で決めたいという DIY 精神が僕の奥底にある。
考える人、というのは一般的には社会的な行為であると思われる。
しかし、考えることがある意味、反社会的である、とはどういうことなのか、考えてみる。
そのためにまず、考えない、ということを考えてみる。
何も考えずに済む状況を想定すると、それは、すべてが予定通りスムースに進行しており、当たり前なものだけが存在しており、特に問題のない状況であると言える。
世界をミクロに見ると確かにこういう瞬間があるし、必要とされている理由も理解できる。
しかし、この現実には沢山の問題が存在する。
政治・経済・地域・人口・健康・生活といったあらゆる面で問題のない瞬間は一切ない。
その中で、リテラシーの特性によっては問題を問題であると認識しやすかったり、しにくかったりする。
ただ、現実には様々な事象が存在するだけでそれ個々では問題たり得ない。それを組み合わせたり、グループ分けすることで問題が見えてきたりする。
つまり、認識する前提知識やマインドセットがあって初めて、問題を認識でき考えることが始まる。
よって、現実(社会)を観察し、それを100%受け入れるわけではなく、問うことで初めて問題が認識されるため、考えるという行動には、現実を否定し未来を肯定していく必要が必要なんだと思う。
現実を問うことが、考えるの陰の部分であり、未来を肯定することが考えるの陽の部分なのではないかと考える。
やること
行動観察に実際に取り組むことを始める。
そして、それに何度もトライして、自分なりの行動観察を見つける。
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