読書感想文『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

きっかけ

音声配信サービス Voicy にて、”【本音茶会】じっくりブランディング学” の放送にて、株式会社TENGA - 国内マーケティング部部長 - 西野芙美さん が紹介していたことでこの本の存在を知った。

ブランディングには興味があるので、Voicy でこの放送をフォローしていたが、TENGA の方が出演されているというので、好奇心という興味も働き、放送を聴いた。

放送自体は、性に対する自分の認識をアップデートさせる内容で非常に勉強になった。

この本を、Voicy パーソナリティである工藤さん、TENGA の西野さん共に読んでいた、ということで興味が出て購入して読んでみたというところだ。

まずタイトルがズルい。
途中までフェイクを効かせて、最後で落とす。

こんな事を言って良いのだろうか、というハラハラする気持ちにさせられるセンセーショナルなタイトルでもあったことから、より好奇心をそそられた。

気づき

健康が人生の手段ではなく、人生の目的になってしまっている。

こういった批判的精神をベースに現代社会の ”整った感じ” に言及していくのが、この本および著者の概要である。

こういった著者の言及の一方で、私は個人的にプロダクトデザインの制作に取り組んでいる最中で得た気づきを共有しておく。


”手段の目的化” は否定的な文脈で使われることが多いが、なぜなのだろうと考えてみたことがある。

否定の対象になるということは、それが頻繁に起こることがそもそも必要である、と考えた。

要は人間は放って置くと、ついつい手段の目的化をしてしまいがちなのである。

手段の目的化をしたい、という無意識化での欲求が働いている、とも言い換えられるかも知れない。

もしかすると、人間の基本的な欲求かも知れない、という仮説さえ浮かんだ。

例えば、おもちゃなんかはその類だ。

おもちゃは、車や人形の形を模しているなど、実社会での利便を考えられたものであったり、人間同士の関係性を再現されていたりする。

それを子供は何の疑問もなく遊ぶ。

何も特定の意図がなかったとしても遊びたいのである。

大人からすると、おもちゃで遊んで情操教育ができるなど、効果を語ることができるが、子供からするとそんなものはどうでもよくて、遊ぶこと自体が必要なのである。

ということからすると、手段の目的化は、人間にとってプリミティブな欲求ということができるかもしれないと思っている。


良く生きて良く死ぬという目的のための手段として養生訓が存在していた。

健康という概念が生まれる前に、日本人がどういった概念を持っていたのか、という文脈で語られたこと。

”健康” を一側面から眺めると、それは ”死” をなるべく遠ざける、ということになるというニュアンスのことを著者は記していた。

確かにこれは、私も共感する概念である。
病気や怪我が無いことを目標とするのであれば、死を目前とした際、激しい自己矛盾を感じるだろうと思い、ある程度健康状態を諦める姿勢を獲得した経験がある。

そういった考えは、養生訓に繋がるのだろうということをこの本で初めて気づいた。

良く死ぬ、という ”死” を能動的に捉える姿勢によって、人はもう少し自由になれるのかもしれない、と感じる。


  私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうではないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
   これはコミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか?

この指摘は鋭いなと感じた。

Instagram に適する投稿や、Youtube のコメントに適するもの、X の投稿、など、それぞれ場に相応しいコミュニケーションを自然と行っているのが現代人だ。

あるメディアにおいて、自分の特定の面だけを見せていくことは、ブランディングの観点では正攻法でもある。一貫性を持った存在となれるからだ。一貫性があると、信頼を得ることができるし。

ビジネスや一般的な人間関係においては、そういったブランディングは正しさとして存在する。

しかし、人間は常に一貫しているような存在でもないことは良くわかるだろう。

一貫していない姿を見せないということで、ブランディングがなされるのであれば、それは確かにディスコミュニケーションかもしれない。

おそらくだが、この ”ディスコミュニケーション感” は無意識の内に人は感じ取っているのではないかと思う。

だからこそ、やはり人は直接的な対話を欲するのではないかと考える。
リアル空間であれば、連続的で、瞬間的なコミュニケーションとなるため、一貫性について考慮を深める時間も少ない。

その人となりがそのまま出やすい状況である。
その方が、むしろリアルな相手の事を知れるということもあり、安心を得やすいのではないかと考えた。

ただ、どこまで行っても完璧なコミュニケーションを求めることは不可能だと思う。

現代において迂闊な一言は、本当の意味で人生を激変させてしまう可能性もあるし、素行の悪さは一瞬で拡散される可能性を含んでいる情報化社会であるために、出力する情報を選ぶ、というのは護身のための自然な行為であるとも感じた。

と、考えてみるとこの現代の状況に辟易してきたニュー現代人が、どういった思考・行動を取っていくのか、というのは非常に気になるテーマの一つである。



やること


自由を求めた品行方正によって、不自由さを享受しているのが現代である。

その不自由さを認識することがそもそも難しいと感じる。
なぜならば、それを ”望んでいる” と思い込んで現在に至っているため、望んだものを簡単に手放そうとは多くの人は思わない。

だとすれば、この不自由さについて、まずは語り認識を共有することから始めるのが良いのではないかと思う。

解消する策は無くとも、その共通の認識から新しい社会が生まれるのであろうと思う。


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