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東京という街を今より、もうちょっと好きになる『パーフェクト・デイズ』

 サウナに通うことで身体だけでなく、心まで整える「サ道」「サ活」ブームが数年前から起きている。漫画やテレビドラマがきっかけで生まれたブームだが、この映画を観た人の間では「トイ道」「トイ活」ブームが起きるかもしれない。ドイツの名匠ヴィム・ヴェンダース監督の新作映画『PERFECT DAYS』は、トイレの清掃員が東京都内のさまざまな公衆トイレを掃除して回る毎日を描いた作品だ。トイレだけでなく、観ている人間の気分までクリーンにしてくれる。カンヌ国際映画祭では、トイレの清掃員を演じた役所広司が最優秀男優賞を受賞した。

 都内の下町にある古いアパートの一室。朝早く起きた平山(役所広司)は、顔を洗い、口髭を整え、植木鉢に水をあげ、缶コーヒーを一本飲んでから、掃除用具類を詰め込んだワゴン車に乗る。60年代~70年代のロック音楽が収録されたカセットテープを聴きながら、その日の仕事場へと向かう。

 平山が清掃する渋谷区の公衆トイレは、どれも個性的なデザインのものばかりだ。それぞれロケーションも違えば、利用者も違う。同じトイレはひとつもない。利用しているときは気づかないが、人間と同じようにトイレにもひとつひとつ異なる顔があることが分かる。

 そんなトイレの顔を、平山は根気よく丁寧に磨き上げていく。目の届かない裏側は、鏡を使ってクリアーにする。便器のひとつひとつが、まるで由緒ある仏像のようにピカピカになっていく。若い同僚のタカシ(柄本時生)が「なんでこんな仕事、そんなにやれるんですか?」と不思議がるほど、トイレ掃除に熱心に打ち込む平山だった。

 禅寺の修行僧のような一日のお勤めを終えた平山は、アパートに戻ってから近くの銭湯へ行く。身も心もさっぱりさせ、地下鉄浅草駅改札近くにある居酒屋で酎ハイといつものメニューを頼む。ほろ酔い気分でアパートへ帰り、古本屋で見つけたお気に入りの文庫本を読みながら眠りに就く。穏やかな平山の生活は、西川美和監督の『すばらしき世界』(20年)の主人公の後半パートを思わせるものがある。

 毎日、同じルーティーンを繰り返す平山の生活を、ヴェンダース監督はドキュメンタリー作品を撮るかのように追っていく。同じような毎日だが、平山のその日の気分によってカセットテープの曲が変わり、清掃する公衆トイレも変わる。昼休みにサンドイッチを食べて過ごす公園では、平山が眺める木漏れ日も、日によってちょっとずつ変わっていく。決して、同じ毎日が繰り返されているわけではない。

 ヴェンダース監督の代表作に『ベルリン・天使の詩』(87年)がある。ブルーノ・ガンツ扮する天使は、人間たちの暮らしを愛おしそうに眺めていた。天使たちがベルリン上空から人間の生活を見つめていたのに対し、平山は公衆トイレの清掃を通して、東京という街を愛している。『ベルリン・天使の詩』とは対照的な構図だ。ヴェンダース監督が敬愛する小津安二郎監督作品の特徴であるローポジションからのカメラアングルを、図らずも踏襲していたことになる。ちなみに「平山」という主人公の名前も、小津作品へのオマージュだ。

「見えない壁」によって分断された街

 平山の毎日を追っていくことで、現代の東京の様子が次第に浮かび上がっていく。平山の同僚・タカシはガールズバーに勤めるアヤ(アオイヤマダ)に惚れているが、アヤをデートに連れ出す車もなく、アヤのいるバーに行くお金もない。

「金がないと恋もできないなんて、なんなんすか俺。なんなんすか時代」

 タカシは平山に向かって愚痴る。

 お金さえあれば、アヤは振り向いてくれるとタカシは思い込んでいるが、本当はそうじゃない。お金にこだわっているのは、タカシ自身だ。平山は口で諭すことはせず、タカシにバーへ行くお金を渡す。恋と人生の痛みは、身をもって学ぶしかない。おかげで、平山の財布も空っぽになってしまう。

 モノクロ映像がカラーに変わる瞬間が鮮やかな『ベルリン・天使の詩』は、当時はまだ冷戦中で「ベルリンの壁」によって東西に分断されていたドイツの首都が舞台だった。今の東京も「見えない壁」によって分断されてしまっている。持っている人と持っていない人との社会に、隔てられてしまっている。

 小津安二郎監督の『東京物語』(53年)の時代に比べ、街はずいぶんと大きくなったが、いつしか街で暮らす人たちは2つの世界に別れて生きるようになってしまった。毎日、みんなご飯を食べ、排泄し、眠り、年齢を重ねるという生活を続けているだけなのに。どうやら持っている人たちには、老いたホームレス(田中泯)の姿は見えないらしい。

 平山の姪であるニコ(中野有紗)は、そんな社会に疑問を感じている。母親(麻生祐未)の言うとおりの人生を歩めば、安定した世界で生きることができるはずだ。でも、世界をそうやって分けて考えることは、はたして正しいのだろうか。自分の可能性をせばめることにもならないだろうか。母親への反抗心もあって、実家を飛び出し、変わり者の伯父・平山のアパートへとニコは転がり込む。

 トイレ掃除に打ち込む平山の生活に、短い時間だが触れることになるニコ。平山と一緒に隅田川の流れを見つめ、いつか一緒に海を見に行こうと約束する。若いニコは、これからどんな人生を歩むのだろうか。

影には実体がないが、真実を映し出すこともある

 平山が愛読しているのは、幸田文やフォークナーといった忘れられがちな作家たちの文庫本だ。そうした本の中に、パトリシア・ハイスミスの一冊も含まれている。彼女のサスペンス小説を原作に『アメリカの友人』(77年)を撮っているヴェンダース監督だが、本作で取り上げられるのは『11の物語』。かたつむり愛好家がおかしな最期を遂げる『かたつむり観察者』など奇妙な味わいの短編集となっている。

 世間からチヤホヤされることはなくとも、社会の役に立つ仕事に就き、清潔で温かい湯船に毎日浸かり、好きな本を読むことができる。お金持ちよりも、ずっと心豊かな生活がスクリーンに映し出される。

 ストーリーらしいストーリーはない本作だが、クライマックスらしい場面はちゃんと用意されている。仕事が休みの日は、気になる女将(石川さゆり)がいる小料理屋に行くのを、平山は楽しみにしている。女将はアニマルズのヒット曲「朝日のあたる家」をとてもうまく歌う。それだけでお酒が美味しく感じられる。ところが、その日の女将は店の中で見知らぬ男(三浦友和)を抱擁していた。ショックを受ける平山だった。

 男は女将の別れた元夫だった。隅田川のほとりでタバコをふかしていた平山のもとに、先ほどの男が現れる。話してみると、意外と気が合う。年甲斐もなく、夜の公園で影踏みをして遊ぶことになる。身なりのいい男は、おそらく「見えない壁」の向こう側の住人だろう。別々の世界で暮らす二人だが、影の世界では共に童心に戻って戯れ合う。いい年齢の大人たちが無邪気に遊ぶ様子が、なんとも味わい深い。

 役所広司と三浦友和というベテラン俳優たちの掛け合いは、ヴェンダース監督の初期作『さすらい』(76年)の1シーンを思い出させる。『さすらい』の主人公である男たち二人(リュディガー・フォーグラー、ハンス・ツィッシュラー)は、映画館のスクリーンでふざけて影絵ごっこに興じていた。

 影には実体がないが、時に影は実体以上に真実を映し出すこともある。そもそも映画は、影絵遊びの延長上にあるものだろう。光と影、その両方があって美しい物語を奏でることができる。日の当たる部分だけでなく、影のある部分も受け入れることで、世界はもっと鮮やかになっていく。人生はもっと味わい深いものになる。

 永遠の時間を生きる『ベルリン・天使の詩』の天使は、限られた時間を一途に生きる人間の生活に魅了された。同じように、この映画を観た人は、平山の実直な生き方に憧れることになるだろう。映画館を出たとき、あなたの目には鮮やかな色彩に満ちた街が映っているに違いない。

 そして、トイレ掃除することがきっと楽しくなるはずだ。

『PERFECT DAYS』
監督/ヴィム・ヴェンダース 脚本/ヴィム・ヴェンダース、高崎卓馬 
出演/役所広司、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ、麻生祐未、石川さゆり、田中泯、三浦友和  
配給/ビターズ・エンド 12月22日(金)より公開
(C)2023 MASTER MIND Ltd.
https://www.perfectdays-movie.jp/


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