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花について #07 ただそこに咲いている

数年前の話。

その電話は月曜の夜にかかってきた。弟からだった。週末に京都出張があり実家に寄るつもりで伝えていたが、母が骨折をしたので迎えなどが難しくなったと言う。よく聞けば、けがは朝のことで、病院での検査や治療、自宅療養の準備と寝床に落ち着くまでのてんやわんやがようやく落ち着いた後らしかった。

家に着くと、玄関の隣の部屋に医療用ベッドが置かれ、簡易の病室ができていた。母は思ったより元気そうだったし、父と弟夫婦が生活の段取りは整えてくれていたので、わたしが新たにすべきことはあまりなさそうだった。とはいえ身体が動かせないので食事の用意と生活に関わることを手伝い、仕事の翌日はベッドまわりの物を探しにいった。オーダーに従って明るい色柄のシーツカバーやタオル、雑貨や雑誌などを選び、支払いの段になってふと思い立ち、花もかごに入れた。ドラッグストア併設のスーパーでは種類も少なく、仕方がないので5束ほどの中から若干元気そうなゆりとかすみ草、カーネーションとぶわっとした黄色くて小さい花(名前を忘れてしまった)の2束にした。間に合わせ感は否めなかったが、ないよりはずっといいと思った。家で少しくたびれたかすみ草をはずし、残りをまとめ直したらそこそこボリュームが出て格好がついた。

ベッド脇に飾ると母が喜んでくれたのでホッとした。電話を受けるまで何も知らず(それは仕方ないのだけど)、家に戻るまでほぼ何もできなかったことがそれまで気になっていた。

その夜、「病室に花を置こうと思う人はどれくらいいるのか」とぼんやり考えた。お見舞いでもらった花を飾ることは珍しくないが、自発的にとなるとかなり減るように思う。緊急の入院ではまずそれどころの話ではないし、予定された入院でも準備物が多いので優先順位としては低めだ。昨今は生花の持ち込みを嫌がる病院もあるらしく、そうなると大部屋か個室かも関係するだろう。こうした諸々のハードルを超えられても、まずは入院して諸々が落ち着いた後で手をつける、という感じだと思う。あとは、長く入院する人が気分を変えるためとか。
どんな場面でもこの言い方が当てはまるのが少々切ないが、花はその場にあってもなくてもいいものだ。でも、あると嬉しい。そして、このあってもなくてもいいものがあることで、借り物の病室やベッドまわりは突然「わたしの部屋」になる。

わたしにも入院の経験が2度あり、最初は大部屋で次は個室だった。どちらも急患が入る科ではなかったので雰囲気はのどかで、日程もごくゆったりしたものだった。後者は数カ月前から決まっており、余裕があったので花は必ず置こうと決めていた。結果、諸々あってピンクと赤のアレンジを2つも置くことになり、いる日数からすれば華やかすぎるとも思ったが、その後これだけあってよかったと思った。手術は命に関わるものではない。怖いとは一ミリも思っていなかったはずなのに、ひとりになって病室のがらんとした様子を認識した途端うっすらとした怖さが襲ってきた。背中がそわ、とする。一日を過ごすことは同じなのに宿泊施設とはまったく違う、厳しくはないけどやさしくもないフラットさが、異質な場にいる印象を強めたのだろうか。でもその怖さはピンクや赤い花のおかげで薄まり、そわ、とした背中の感覚も消えた。
手術が終わり、麻酔が切れた途端に痛すぎてひたすら唸っても、今までにないことに熱が出てフラフラになっても、少し動けるようになってからも、花がわたしに物理的な何かをしてくれることはなかった。ただそこに咲いているだけ。ただ気持ちや痛みは充分に紛れていった。なぜそれだけの効力があったのかは自分もよくわからない。わからないが、確かに病室はわたしの部屋になり、憂鬱な気持ちは軽くなった。

自宅療養と病室では空間の在り方はまったく違う。でもいくつかのことを考えると、病室の花には自分の身に起こった異質な状況を和らげ、普段の毎日に近づけてくれる力がある。そのことは同じだった気がする。母もわたしも元気になって、何かのきっかけでそんなことを思い出す。

特に大阪では多いらしい花のお見舞いが禁止されている話を聞くと、とても残念になる。花を置くことが可能な場所で、どれだけの力を発揮するかと考えてみてほしいと思う。香りが問題なら香りのしない花を選ぶことができる。水替えの手間はアレンジメントにすればそこそこ楽になる。緑膿菌が問題ならハーバリウムもある(本来は生花派だけど、ここはもう譲歩しよう)。病院側にもいろいろな理由があるのはよくわかる。人による好みもあるのも理解している。でもこれだけは間違いない。病室にある花は病む誰かにとって美しさで力づける自然の薬であり、日常に引き寄せる力を持っている。

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