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福島生まれ福島育ちが震災後10年目でやっと被災地を見てきた話

行こう、行こう、と思いながら、被災地と呼ばれる場所を見ないまま10年が経過してしまいました。募金や物資を送るなどのオンラインのサポートばかりで、ボランティアも行ったことがありません。言い訳ばっかりなので書きません。

10年間モヤモヤしているのなら勢いで行ってみよう!と決心。ためらい、不安てんこ盛り状態だったのですが、福島を支援し続けている同僚の心強いサポートで、5月6日にツアーをしてきました。(神経質で細かい私に、オーダーメイドいただきました。感謝)

私は福島市生まれ・福島市育ちでありながら、両親が福島出身ではないので土地との結びつきが強いわけではなく、浜通りに行った記憶も曖昧です。地名も地理もよくわからない。調べながらこれを書いています。

当日の行程

総移動距離362.5km
自動車:104km 電車:255km 徒歩:3.5km
福島市→双葉郡浪江町→南相馬市→南相馬市原町区→東京駅 

Googleマップのタイムラインより

双葉郡浪江町の帰還困難地域を通過

浪江町の帰還困難地域は、バイクや徒歩での通過はNG、自動車での通過のみOKの地域です。住民の方たちは申請をすれば、自宅に一時立ち寄りをすることが可能ですが、宿泊はできない状態が続いています。

山道を超えていきます
通行止めバリケードと看板が至る所にあります
スクリーニング場 
ここで働く方や一時立ち寄りの住民の方たちの立ち寄りが義務付けられています

生活の気配がない町を通過。ひとつひとつに共感していると脳がオーバーヒートしそう。なんとも複雑な感情になりました。

建てたばかりで震災にあったと思われる、立派な大きな家もたくさんありました。窓や玄関が割れて、おそらく動物の寝床になっているような古い家も。砂やほこりをかぶって灰色になった自動車も目立ちます。

家や自動車、道路などの人工物が静かに色をなくしている反面、人の手の介入がない植物はいきいきと伸び放題で、生命力に満ち溢れていました。そのコントラストが印象的でした。

全くの無人地帯ではなく、工事現場で働く方の姿が目立ちます。家の取り壊しなどが多く行われていました。また、一時帰宅している住民の方や、「巡回」の腕章をつけた人たちが道路沿いで会話しているのも見かけました。

墓地を通過した際に、墓石の前に色とりどりの鮮やかな花が供えられているのがたくさん見えました。一般的な墓地と比べても、とてもカラフルでにぎやかに見えました。一時帰宅と同時にお墓参りをした方が多かったのだと思います。現在は遠方に住んでいる住民の方も多いようですが、こうして手入れして、墓地が美しく彩られているのがとても心に残っています。

帰還困難地域を抜けて、電気の通った信号がある交差点に出たときの感情は忘れられません。ほっとしたような我に返るような、初めて味わう感情でした。

浪江町の復興のシンボル

帰還困難地域を抜けてすぐに、浪江の「道の駅」で休憩。「浪江町の復興のシンボル」で、前日に福島のローカルテレビでも特集されていた、活気のある場所です。なんとここで、以前お会いした方にばったり遭遇。うれしいサプライズでした。

名物の「浪江焼そば」などが食べられるフードコート、お酒などの物販もセンス良く充実していました。きっと半日いても楽しめると思います。

浪江の人は気前がよすぎます。
シラスがお米の上に5センチくらいの厚みでのっていました とてもおいしかった

福島県内で初の震災遺構「請戸小学校」

次に、海岸沿いへ。津波に流された場所に降りるのは、初めてです。

原発事故のため、宮城や岩手に比べて数年規模で復興が遅れているとのこと。防波堤の内側には、防風林を作るための植樹が進んでいて、膝丈くらいの高さに伸びていました。

海沿いの道
更地が続きます


福島県内で初の震災遺構、請戸小学校へ。昨年から一般公開されている場所です。

請戸小学校は海岸から300メートルの距離にあります。この小学校の生徒はみな避難して無事だったので、こうして遺構としての展示が可能になったようです。犠牲者が出た場所ではなかなかこうした展示は難しいかもしれない、という話が印象的でした。

津波の威力や圧力とともに、これらを残す人の思い、胆力についても考えさせられました。

二階の床面まで津波が達したそう
一階は壊滅状態です
もともとはデザイン性のある開放的できれいな小学校なだけに、
津波の痕跡が生々しく見えます
押し流されて圧縮されたがれき、土砂
体育館は卒業式のセッティングがされたままの状態になっています
二階は展示ブースに
訪れた方たちの応援メッセージが残されています
震災直後の陸上自衛隊の方たちのメッセージも保存されています
昇降口付近の外壁に挟まっていた丸太。
津波で流され衝撃で押し込まれ、はまったままになっています

福島の小学生が高学年になると体験する「鼓笛パレード」の文化がここにもあって、私自身の小学生時代を重ねました。

今まで、津波のニュースは画面越しに何度も何度も、数えきれないくらいに見てきました。津波で命の危機を感じた方の話も直接聞いています。

でもこうして現場を実際に見るということは、全く異なる種類の強烈なインパクトでした。目からの情報で自分の感情を持つことで、自分事化につながる気がします。

南相馬で、馬に乗る

南相馬市は千年続く伝統のイベント「相馬野馬追」が有名です。至る所で馬がモチーフになっています。

恥ずかしながら、福島県民でありながら、ぼんやりとした知識しかありませんでした。改めて見ると、ものすごい素敵なイベントです。

というわけで、ちょっと勇気が要ったのですが、馬に乗って観光するサービスを体験してきました。2キロほどの道のりを30分程度かけて往復します。

馬に乗って信号待ちしたのは初めてです…

馬上は結構な高さがあり、当然ですが歩むたびに揺れます。怖くて「1分くらい乗ったら引き返してもらおうかな」なんて思っていたのですが、すぐに慣れました。

馬は「軽車両」と同じ扱いだそうで、公道を歩くし、信号も守ります。隣を車が通過するときなどは、興奮しちゃって振り落とされたらどうしよう、と心配でしたが、とてもおりこうで、全くそんな心配はありませんでした。

元競走馬のナイトアンジェロくん
サラブレッドに乗せていただいたのはたぶん初めてです
とってもかわいい おとなしくてよい子
また乗りたいです
晴天のなか、川沿いを散歩。気分は鎌倉殿

かっぽかっぽと揺られて、こころが無になる、マインドフルネスに近いような、ゆったりと気持ちの良い時間でした。

南相馬ではこのあと「小高パイオニアヴィレッジ」を見学。昨年ボランティアで少しお手伝いさせていただいていましたが、ZOOM越しではなくリアルでご挨拶することができました。

移住者や福島を支援する人、地元の人のエネルギーが渦巻いていてパワースポットのような場所。こういうかっこいい場所が福島に生まれていることは、うれしくてたまりません。

津波に流された土地に続く「菜の花迷路」

次に、鹿島区を通過。ここは、2022年3月16日の震度6強の地震の被害が大きく、復旧作業があちこちで進んでいました。大きくたわんだ壁、傾きそうな家、ブルーシートで屋根全面を覆った家などが無数にありました。

最後に原町区の「菜の花の迷路」へ。津波でご家族を亡くしたご遺族と地元ボランティアによるイベントです。津波に飲まれた場所で、がれきを除き、2013年から手作業で種を植えてきたそうです。

一面の黄色。想像以上の面積です。圧巻。思い付きや賑やかし目的でやれる規模ではないです。

迷路の難易度も高く「ゴールにたどり着けないのでは」と本気で焦るほど

私は今回、遺族の方と直接お話する機会はありませんでしたが、ここに立つだけで無言のメッセージを体感できるような場所でした。

10年後に行くことは「間違い」ではなさそう

旅の途中、フルスピードで様々な感情が湧き、いろいろ考えました。果たしてそのまま書いてよいのだろうか?と迷いが伴うものが大半です。

ひとつ言えるのは、震災後10年経った今、あえて被災地に行くことが遅すぎる・間違い、ということはないんじゃないかな、ということです。

復興自体はまだまだ現在進行形ですが、同時に確かな兆し、賑わい、気配や希望も感じることができました。これは今だからからこそ体感できる、貴重な光景だったと思います。

まとめ)その他すべての行程

  1. 福島駅前集合、トヨタレンタカーで出発(8:30)

  2. UFOふれあい館 見学

  3. 国道114号で浪江方面へ

  4. 帰還困難地域を通過

  5. 双葉郡浪江町 道の駅

  6. 双葉郡浪江町 福島県内で初の震災遺構「請戸小学校」見学

  7. 南相馬市小高区 「うまさんぽ」体験

  8. 南相馬市小高区 「小高パイオニアヴィレッジ」見学

  9. 南相馬市原町区 「菜の花迷路」

  10. 原ノ町駅駅前で夕食

  11. 特急ひたち30号で原ノ町駅→東京駅(214分/23時到着)

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