絵画から生まれた新しい感性 「映え」と「盛り」
皆さんは「映え(ばえ)」写真を撮ったりされますか?
それはインスタグラムなどのSNSに載せるために撮る写真で、インパクトの強い被写体を選んだり(映え)、実際以上に良く見えるように手を加えたり(盛り)したもののことです。
これらの写真はとても綺麗なのですが、個性が感じられなかったり、真実味が無い印象も受けます。
ただ撮っている本人は全くそんなことは感じていないでしょう。それよりも撮影者は自分が見たい光景、そこに収まっている自分を見ることの方に関心があるように思えます。
実はこうしたものの見方は元々絵画芸術の中から生まれました。対象をより魅力的なものとして眺めたいという欲求が見る対象を一定の法則でデフォルメして描く手法を生み出したのです。
それは風景画と肖像画に影響を与えました。思い出として描かれ、眺められる絵画において画家は対象にある種のアレンジを加えたのです。そして現代の私たちも思い出を映えさせたり、盛ったりして画像に記録しています。これはかつて絵画の中に存在したものと同じ感性だと言えるのではないでしょうか。
そこで今回はこの「映え」と「盛り」に関して現代の感性に通じる絵画作品を紹介してみることにしましょう。昔の人々が現代の私たちと似た感性を持っていたことがわかって面白く感じていただけると思います。
現実よりも美しい風景~映え写真
インスタグラムにはいろんな写真が投稿されています。ほとんどの写真は撮ったままの画像ではなく、何らかの加工がなされているでしょう。
当たり前のことのように思われるかもしれませんが、よく考えてみてください。なぜ私たちは目で見たままの写真では満足しないのでしょうか。
私たちは実際の経験以上に「美しいものを見た」「価値ある経験をした」と思いたいものです。そこで写真に残す価値のある風景や対象物をわざわざ探し、たまたま撮った風の写真に加工を加えるのです。
例えばロンドンへ旅行した人はこのような写真をインスタグラムに上げるかもしれません。
色を淡く調整し、広角レンズで垂直感を出すことで、よりダイナミックな印象に加工しています。
写真にこうした演出を加えることで、時と共に薄れていきがちな思い出を補強しているのでしょうか。
“絵になる”風景探し~ピクチャレスク
旅に行った先での思い出は美しく見せたいのが世の常です。
既に18世紀からヨーロッパでは旅先の風景を加工して眺めるということが行われていました。
私的な目的での旅行は社会が安定してきた17世紀以降、裕福な階級の人たちの間で行われ始めました。
特に18世紀から19世紀にかけて裕福な家の子息が人間形成の仕上げとして先進国であるフランスやイタリアを旅する「グランドツアー」が流行します。
比較的北にある国イギリスの都市からやってきた人たちは旅先(主にイタリア)で今まで見た事もなかった風景を目にします。
アルプスの雄大な風景、南国の青々と茂る木々、そして本でしか知らなかった古(いにしえ)の文明の痕跡…
彼らはそれを“絵になる”という意味の「ピクチャレスク」と呼びました。
なぜ「美しい」ではなく「絵になる」なのでしょう?
それは既に“絵”があったからです。
18世紀イギリスではある種の風景画が好まれました。17世紀フランスのクロード・ロランやイタリアのサルヴァトール・ローザといった画家たちの作品です。
彼らの風景画は理想化され、幾分ドラマチックに描かれています。イギリス人はイタリアへ旅行に行く前からイタリアの風景をこれらの絵画によってイメージしていました。
そして彼らがイタリアに行ったときには、イメージしたのと同じ“イタリア”を見たがったのです。
18世紀の“映え”加工アイテム『クロードグラス』
はるばる異国へやってきて素晴らしい風景に感動したのもつかの間、18世紀の旅行者にはどうもその風景が物足りなくなったようです。
自国で見た理想化された風景に現実の風景を寄せるため、ある道具を使いました。
その名も『クロードグラス』。
「クロード・ロランの絵のように見える鏡」の意味で、暗い色に着色され、わずかなカーブ付けた凸面鏡です。
旅行者は良い風景に出会うとそれに背を向け、クロードグラスに反射させた風景を眺めます。
すると実際の風景の色のトーンが落とされ、広い視野がまるで絵のように枠の中に納まります。そうして現実の風景をまるで「絵のように」楽しむことができるのです。
いつでもどこでもクロードグラスを通して風景を見る習慣が定着すると同時に、イギリス人はクロード・ロラン風のイメージを自国の風景からも見つけるようになります。
当時ピクチャレスク美学の“インフルエンサー”だったのが、聖職者であり旅行作家であったウィリアム・ギルピンです。彼は自身の“版画エッセイ”の中で「絵のように」美しい風景の定義と鑑賞の仕方を広めました。
その著書の中に旅行中スケッチした風景を載せているのですが、その絵の外枠が楕円形になっていることからもわかるように、その風景自体がクロードグラスを通して見たものなのです。
ピクチャレスクの美学は「絵のような風景を探す」というものから、「自然は見えたままでは十分には美しくなく、人が見た目を修正した方が美しく見える」というものに変化していきます。
私はそれが“映える”写真を撮りたがる私たちとかなり近い感性だったのではないかと思うのです。
ちなみに最近のスナップ写真ではかつての『写ルンです』で撮ったような、色のトーンや画像の鮮明度を落としてノスタルジックに演出したものが人気だそうです。
これはクロードグラスを通した風景がリアルな風景よりも素晴らしいと感じるのと似ています。
それに、風景に背を向けて写真を自撮りする人の姿は、まるで18世紀の旅行者のように見えはしないでしょうか。
現実よりも美しい自分~盛り写真
現代の若い女性の中で、自身の画像をSNSに上げる際に加工を行わない人はほとんどいないでしょう。目を大きく見せたり、スタイルを良く見せるような加工はスマホアプリで簡単にできます。
日本人はまだ気恥ずかしさがあるのか加工のやりすぎは印象が悪いですが、韓国や中国の人は自分を良く見せることに躊躇は無いようです。
「こんなスタイルあり得ない!」「そんなに自分を良く見せたいの?」と言う人も多いと思います。ですが実はこうした人体に対する見た目の加工は現代に始まったわけではないのです。
リアルさや均整よりも、見た目重視~肖像画
ヨーロッパの伝統的肖像画は基本的にモデルを実際よりも良く見えるように描くのが普通です。
その「良く見せ方」には画家の個性と時代の流行があるのですが、現代の『盛り写真』にかなり近い感性を持っていた画家としてジョン・シンガー・サージェントを紹介します。
彼は19世紀の終わり頃から20世紀初頭にかけて活躍した画家で、イギリスの上流階級の人々を描いた大変華麗で素晴らしい肖像画を多く残しています。彼の筆にかかれば誰もが素晴らしいスタイルと表情をした“美男美女”になれるでしょう。
サージェントはモデルの表情も素晴らしく描くことができました。間違いなく“実際の表情”よりも魅力的に描いていると思います。
19世紀末の肖像画には「盛ってなんぼ」という意図が強く感じられます。
ただそれは現代のような「みんなに良く見られたい」「自分がかわいいと思いたい」という個人的な『承認欲求』とは違う価値観を感じさせます。
それは恐らく時代の精神だったのでしょう。
現代では19世紀ブルジョワの高慢さとも受け取られかねないのですが、彼らは自分たちが運命から選ばれた人間であると自覚していました。そしてその証しとして外見も内面も優れている自分たちを絵に残そうとしました。
彼らが実際に優れた人間であったかどうかには疑問の余地があります。ですが現代の私たちが絵画の中に見るのは麗しい時代のオーラです。それは特定の個人の姿ではありません。
私は彼らが絵画に込めようとした“麗しさ”を立派な美学だと考えます。そして現代にも芸術として鑑賞する価値のあるものだと思っています。
現代の『盛り写真』も将来そのような見られ方をするようになるのでしょうか?
ヒッピーブームやバブル期の人々の写真も今見てみると魅力的なものです。今の若い人たちの少し気取った写真もいずれ魅力あるものとして見られるようになるのかもしれません。
自分の見たい世界を表現する~ロマン主義
18世紀後半から20世紀初頭まで、西欧社会は広義のロマン主義の時代でした。
それまでの芸術はキリスト教の教義、権力者の栄光、理性で捉えられるもの(そこにはリアルさも含む)などを表現していました。ですがロマン主義の時代の人々はそんな高尚なものばかりではなく「自分が見たいもの」を求めていたように思います。
蓄積された想像力と表現技法、ささやかなハイテク技術が芸術以外の娯楽へもその可能性を広げました。
現代になるとそれにカメラが加わり、最近はスマホアプリの登場で一般の人たちも簡単に自分の見たい映像を手元に残すことができるようになりました。
自分が見たいものを追い求める『ロマン主義』的感性は今でも生き続けているのかもしれません。
「見たい」という願望をハイテク機器が実現する
最後に、自分の見たい世界を見せてくれる『ハイテク』を扱った19世紀のオペラをご紹介しましょう。
運動会の音楽(オペレッタ『天国と地獄』)で有名なオッフェンバックの遺作『ホフマン物語』第二幕より「私の名はコッペリウス」
リアルな自動人形の見世物で儲けようとしたスパランツァーニ博士。観客を魅了するのに最も重要な『眼』を悪魔的な人形師コッペリウスから手に入れています。(スパランツァーニ博士にはサージェントのような目の表現力は無かったのですね。)
その人形に惚れこんでしまった詩人のホフマンはコッペリウスから「見たいものが見れる眼鏡」を買って人形を見ます。するとその人形はまるで生きていて、自分を愛してくれているように見えるのでした。
眼鏡をかけたホフマンの姿はVRゴーグルを付けた現代人と変わりません。そして人形に恋したホフマンを、人形ショーを見に来た観客たちが笑う場面で第二幕が終わります。
度を越した妄想は今でも嘲笑されます。でも『ホフマン物語』でのホフマンは最終的に芸術の女神(ミューズ)に受け入れられるのです。
彼女はどうやらカタブツではないみたいですね。
現代の「映え」と「盛り」の美学もミューズに受け入れられるでしょうか?
そして私たちのスナップ写真が将来どう評価されるのか…
皆さんはどう思われますか?
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