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1952年の1928年 – 過去の過去と、時間を鑑賞することについて –

1950年代を代表するミュージカル映画「雨に唄えば」をなんの事前知識もなく観たことはないだろうか?

無声映画が発生映画に取って代わる時代における映画界のドタバタを背景に、新しい時代に対応しようと落ち目の役者達が奮闘する物語である。勘の良い人は、この文章を読んだ時点で気づいたかも知れないが、これは1952年に撮られた –– おそらくは1928年を舞台とした –– 懐古的な情緒を漂わせた映画である。第二次大戦の足音も聞こえない1928年。それはアメリカにおいて社会、芸術および文化が発展し「狂騒の20年代」と言われた時代が世界恐慌により崩れ去る直前、最後の1年である。その時代を懐古しようとする1952年の作品を、2020年代に生きる私たちがまた懐古的なまなざしで見ている。ここで気をつけておきたいのは、この作品が現代を生きる私たちからみて、1920年代を懐古する作品として作られていることを意識しなくても鑑賞できるということだ。しかし1952年の観客は、きっとこの作品を懐古的な作品として観ただろう。

我々は「雨に唄えば」という作品自体を古い映画として観るが、その作品内にある –– 現代の視点から見ると入れ子構造のように見える –– 過去を懐古する感傷にもしかしたら気づかないのかもしれない。しかしこの作品は相変わらず歴史的な名作として観られ続けている。評価をするということには、作品に普遍的な価値を見いだし、それを批評するという営みがあるとともに、現代の目線で過去の作品を再評価するという動きもまたある。作品は変わらないかもしれないが、観ている我々は変わって(しまって)いるのである。過去の作品の評価は一定ではない。だからこそ、その時代において過去の作品のこれまで語られてこなかった観点に光りを当てることは、いつでも可能であり有益なことである。そのようにして過去の作品を鑑賞するということは可能ではあるが、しかしここで一つの問いが立ち上がってくる。「我々は作品とともに、その時間そのものを鑑賞しているのではないか?」という観点である。

「時間そのものを鑑賞する」とはどういうことだろうか?

例として時間を情動に入れ替えて考えてみたい。ある情緒的な映画があったとしよう。物語の最後で、主人公は複雑な感情を漂わせた笑顔をみせるかもしれない。そのとき我々はその表情を鑑賞しているのだろうか?もちろんその表情、そしてその役者の演技力に心を打たれるのかもしれないが、我々はその役者が演じる複雑な「情動そのもの」を鑑賞しているともいえる。複雑な表情を通して、我々は主人公の情動に触れ、そしてそれを自分のことのように経験することでその情動を鑑賞しているのである(もしくはその経験を想像できない断絶を鑑賞している)。つまり、そこで起きているのは「情動そのものの鑑賞」である。それと同じように「雨に唄えば」に習えば、我々はその演技やダンスを鑑賞しながら、そのような豊穣な文化を残した時代に想いをはせるような見方をするかもしれない。その時代、そしてそこから現代につながる時間の移り変わり。現代とその時代において違うところ、そして同じところ。そのような事象を見いだして時間そのものを鑑賞しているのである。

時間が過ぎ去ることで、我々は多くのものを忘れてしまうし、もしかしたら自分達に都合良く記憶を改変しているのかもしれない。ウディ・アレンも、チャーリー・チャップリンも、悲劇は時間をかけることで喜劇となると言っている(あいにく二人ともキャンセルカルチャーにより現代での評価が揺れ動いているが)。そのように過ぎ去る時間が価値のあり方を大きく変えてしまうことを、我々はまた鑑賞しているともいえる。そして、逆にフレッド・アステアのステップのように、時を超えて変わらぬ価値を尊ぶことも可能だ。このように、我々が作品を鑑賞しようとするときに知らぬ間に時間を鑑賞しているという体験が混ざり込んでくることがある。中には意図的に懐古的な情緒を漂わせた、時間を鑑賞するための作品と呼ばれるようなものもあるだろう。

ここからが本題なのだが、そのように「時間を鑑賞する」ということを我々はどのように評価すれば良いのだろうか?

時を重ねること、過去を振り返ること、未来に希望と絶望を見いだすこと。そのすべてが時間軸にまつわる表現である。さらに話を広げると、存在しない過去、見えない未来、ある過去の地点から枝分かれした存在しない現代、といろいろな可能世界を含んだ時間にまつわる事象までが挙げられる。そして時間を鑑賞するということは、まだ明確に議論されていないのかもしれない。

その気づきから出発して、「時間を鑑賞する」ということが何をすることなのか、さまざまな切り口からこれから掘り下げていきたい。それにより、作品づくりにおける時間軸の捉え方、時間を評価するということ、そして時間そのものを意識して鑑賞することについて、何がしかの示唆を与えられるのではないかと考えている。

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