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クロッキーブック

 幼い頃、父母とはまた別に、祖父や祖母に特別な親しみを感じることがあるものだ。僕にとってそれは父方の祖父であった。だがさらに、それより会うことはずっと少ないにしても、秘密の約束めいた共感を覚える親族がいることもあって、僕には大叔父——母の叔父で祖父の弟——が、そして大叔母——父の叔母で祖母の妹——がそうだった。
 その大叔母のことを思い出す。彼女は幼い僕にクロッキーブックをくれた人だった。いまでも手に入るマルマンのクロッキーブックだったと思う。紅色や桃色の円の浮かび上がった表紙を憶えている。幼かった僕は音楽よりも絵画に夢中だった。ときおり父の指揮棒を持ち出して、レコードやテープから流れる音楽に合わせて振ることはあったにしても、クレヨンや色鉛筆で絵を描くことのほうを好んでいた。サッカーボールを蹴っていたことについては措こう。
 ともあれ、クロッキーブックをもらって、そのとき初めて「クロッキー」という言葉を知った。大叔母から僕が学んだ言葉は二つある。一つは「クロッキー」、そしてもう一つは「亡くなる」だ。彼女はそれほどの歳でもなかったのに亡くなった。その知らせの電話がかかってきて、母が「照子叔母さんが亡くなったって」と言ったとき、まだ三歳になるかならないかの僕には理解できなかった。「無くなる」という言葉しか知らず、それは事物には言えても人間には言えないと思っていたからだ。人間が「なくなる」、それは幼い僕を困惑させる言葉だった。
 大叔母は洒落た帽子とサングラスをしていた。その洗練された印象は、クロッキーブックをくれたことと相俟って、さながら芸術のチチェローネの姿で僕の脳裏に刻まれている。幼い頃にどのような絵を描いていたかなど、まったく忘れてしまったけれども、絵画にまつわる幼年期の思い出として、クロッキーブックのことはよく憶えている。あわせて、ことによるとカレンダーなどから切り抜いてそれに挟んでいたのだったかもしれない、オディロン・ルドンの複製画のことを思い出す。さらにもう一つ思い出されるのは、玄関に飾られていた向日葵の絵だ。記憶のなかではゴッホかゴーギャンかの複製画であったようになってしまっていたが、それが大叔母の描いたものであったと知ったのはつい最近のことだ。
 大叔母の描いた何枚もの花の絵を、最近になって初めて見た。彼女が曾祖母を——彼女にとっては母を——継いでいけばなをしていたことも、そのとき初めて聞いた。もっとも、そうして受け継がれたものはもう散逸してしまって、わずかに勅使河原蒼風の書画や陶器が一つ二つ残されているにすぎない。
 花のなかでは向日葵にいちばん心惹かれる、などと口にすれば、子供っぽいと笑われそうではある。それでも、ヴァン・ダイクの《向日葵のある自画像》を眺めると思わず笑みがこぼれ、モンドリアンの《枯れた向日葵》には戦慄を禁じえない。こうした向日葵への感受性は、それと意識せずに、僕が大叔母から受け継いだものだったのかもしれない。玄関に飾られていた彼女の向日葵の絵の印象は、僕の記憶のなかで黄金色に輝いて、幼い頃のあの家の思い出を明るく照らしている。

(2022年5月25日—9月25日)