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バリケードが開いた日はバリケードが増えた日だとまざまざと見せつけられた

2020/3/10午前6時

富岡町の帰還困難区域の一部が先行解除された。

朝のニュースで"その瞬間"の様子が流れているのを私は自宅で見ていた。

もちろん、現地に駆け付けた知人たちもFACEBOOKにその様子を投稿していた。

しとしとと雨が降る日で、気圧の影響かずっと頭痛がしていた。

いわき市の自宅から北上すること1時間半。雨と霧と潮で真っ白な視界の国道6号線。私はどこへ向かっているのだろうか?

いつもの場所にバリケードが無くなっていた。

2011年3月12日東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故で、富岡町は全域が警戒区域に指定された。

全町民が避難したその2年後、2013年3月25日午前0時、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3つに編成される。

その時に、帰還困難区域と居住制限区域を隔てるために建てられたのが、そのバリケードだった。

実に7年。

やっと、それは無くなった。

夜ノ森の桜並木が続くその道を突き進む。

次第に、喉の奥のつかえ感が生じてきた。

通れるようになった。代わりに、さらにそれ以上のバリケードが立っている。

通れるようになった・・・?通れるようにした?

今回の先行解除は、夜ノ森駅の再営業もあって駅周辺とそれまでの道路を解除したに過ぎない。

バリケードは見慣れている。桜並木の東の道路もずらっとガードレールと鎖で封鎖されている。見慣れている。

はずなのに。

なんだかいたたまれなかった。

私も一年ぶりに走るその場所は、真新しいアスファルトの道路、家やお店が解体されて思いのほか開けた視界、見覚えのない夜ノ森駅舎。

知らない町のようだった。

解除は嬉しい。
常磐線再開も嬉しい。

都心から仙台までの鉄道アクセスが再開することは、本当に便利だとも思うし富岡町にとっても人の流通の機会が増えることは好機だと思う。

復興(という言葉は今の町にとっては何をゴールとするのかがわからないけれど)へと一歩近づいたと、その一歩と引き換えになったものはなんだ。

目を瞑らないといけない場所があることを、私たちが一番よく分かっている。そして耐えている。

空間線量の数値がどうこう、安全か安心かの議論、様々な意見を目にし耳にする。そして耐えている。

自宅の目の前に新しいバリケードが貼られたと声を上げて泣いた女の子の心はいつ救われるのだ。

私は、あのアパートの引っ越しをいつ終わらせることができるのだ。

一生我々は、3.11に呪いのように縛り付けられなければならないのか。

ちょうどこのご時世、新型ウィルスの流行でまた世の中は未曾有の事態と言われている。
この時期のメディアはこぞって東日本大震災の特集を組むけど、それも今年はウィルスの話題の方が多いだろう。

目に見えればどうにも苦労はしないはずなのに、目に見えるものすら信じられないこともある。

今日はそのあと、思いがけず知人にたくさん会えた。すべてこの9年間で出会った人たちだ。

あぁ。
見えているものをちゃんと信じること。
そして、ちゃんと受け入れること。

ピンクの傘をさして。

2020.3.10

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