雑文

 汗だくで電車に乗ると、やはり人の顔や風景などが目に入る。しかし、いつも目に訴えかけているのは、不毛な広告の羅列だ。整形、脱毛、英会話、ビジネス書、婚活サイト、マッチングアプリ、結果にコミットするかわからないスポーツジム、感染症の検査キット、転職サイトなどなど……。この類の広告を見ると、何故か、ミケランジェロ・アントニオーニの『砂丘』を思い出してしまう。50年前の映画なのに、様々な広告がクローズ・アップで映し出される。大量消費されるのは、ずっと昔から続いているのだな、と思ってしまい、辟易する。

 東京五輪は、世間の声を無視して開催していたが、自分は目を背けていた。どんなに日本が金メダルを取ったって、自分の生活が極端に良くなったり、変わる訳ではないし、内閣の支持率も上がらないし、感染者は増える一方だし、ステイホームを押し付けて生活に制限が強いられ娯楽もろくに楽しめなくなるし、トライアスロン開催している沿道には「行くな」と言われているのに、人は溢れるし……。挙句の果てに、ドイツのぼったくり男爵は、不要不急と言われている世の中で、厚かましい姿勢で、銀座に現れた。何処まで日本を馬鹿にして、あらゆる事象を侵食するのだろうか。
 第一、「応援しないと非国民」みたいな、同調圧力が嫌いなのだ。そして、自分自身、スポーツの類も苦手な上、大多数の同級生や友達と呼べた人と歩行速度や歩幅を合わせることができないのである。恐らく自分の特性や斜に構えた性格だったり、タトゥーのように掘り込まれた、あるいは、悪いチップを脳に埋め込まれたように、失敗や嫌な記憶が頭をよく過ぎる。高校時代の球技大会で、卓球に参加させてもらえず、自分の存在も無視され、大縄跳びもサボり、少し遠くの公園の噴水を眺めながら、アイスボックスにジュースを入れたものを飲んでいた。何故かそのことを思い出していた。自分のクラスは、優勝したらしいが、自分は蚊帳の外で、全く実感が湧かず、醒めていた。スポーツや体育会系の雰囲気には、あまり良い思い出がない。
 何故か、ヴィム・ヴェンダース監督の『ゴールキーパーの不安』を思い出した。ここに出ていたゴールキーパーのように人を殺さなかったが、試合を放棄して、当てのない旅に出ている、定位置に就かず、今でも放浪している感じがする。

 なんかもう、世の中が嫌な情報や悲しいニュースで溢れすぎて、キャパシティがオーバーしてるし、ニュースが感染症の話ばかりで参ってしまう。名前を出すのも、嫌だ。だから自分で言葉狩りをしている。もう、感染者が増え続ける一方なら、いっそのこと、ロックダウンしてしまえば良いのでは、と思ってしまった。しかし、筒井康隆氏の『残像に口紅を』のように、あらゆる言葉がなくなってしまったら、不自由になりそうだから、辛い。感染症蔓延下だったら、最初に「こ」の文字を無くすだろうか。それくらい、その情報、報道や文字を見るたびに嫌な気持ちになる。全て不要不急という濁流で片づけて、好きなエンターテイメントも崩壊しかけている。何が正しくて、何が間違いなのか、もうよく分からない。

 とりあえず、自分は仕事があるから、目の前のことをやるしかない。そして、時間や懐、身体に余裕が出てきたら、一つずつ何かに挑戦したい。その何かが見えればよいのだが、未だに模索している。意識がある25,6年、ずっと探しているが、見つかっていない。芯がブレたり、そもそもないからだろうか。

 光は、何処にあるのだろうか。

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