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私のいとしいローズヒップ

高校を出てすぐに一人暮らしをしたアパート(…マンション?ちょっとだけ大きかった。部屋は狭かったけど。)の目の前には、国道を挟んで、こじゃれたカフェがあった。

多分そこそこ新しかったんだと思う。あまりお客さんは来ない。ああでもあくまで当時の話で、もしかしたら今はにぎわっているかもしれないけれど、今もあるのかな?って確認する作業は、どうもどきどきして私にはしたくないことなので、ご了承ください。

大きな窓から国道が見えるところが好きだった。行きかう人や車は忙しそうで、私はそれを眺めながらローズヒップのお茶を飲んだ。飲みなれていないローズヒップは甘酸っぱくて、なんだかとても可愛らしく感じられた。処女っぽいお茶だな、と、妙になまぐさい感想を抱いた。

温かなお茶には茶色い角砂糖が添えられていた。乾いた土のかたまりみたいな野暮ったいやつだ。私はその飾りっ気のない味が、白くて無機質で綺麗な角砂糖よりも好きだった。

いかにも店長っぽいお洒落なお兄さんが働いていた記憶もある。夜にはバーに変身するので、確かその時間はお兄さんが出てきていた気もする。けれども昼間は専ら、瞳の大きな綺麗なお姉さんが店員をしていた様に覚えている。茶髪をふわふわとさせて、濃くはないけれどはっきりとした化粧をしていた。乃木坂にはいない系(アイドル詳しくないけれど)、めきめきダンスを踊って露出度の高い衣装を着こなす系のグループにいそう、とでも表現したらいいだろうか。

お姉さんはとにかくそんな美人で、当時流行っていた森ガール系のお洋服を纏いながら、いつもうっすらと微笑んで接客していた。その指にはタトゥーが施されているのを、私は、お茶が運ばれてくるたび、もしくはお会計のたびにこっそり眺めていた。花やら何やら可愛いものではなく、ぱっと見、象形文字みたいなタトゥーだった。そのタトゥーが、彼女は割と強い意志を持って暮らしているひとだ、というのを語っている気がした。繁華街でも無い場所で、しれっとタトゥーを施して(それも人目に付く部位に、)暮らしている人を、多分今ほどは見かけない時代だった。

あの頃の私は、自分がどこにいればいいのかがよくわからなかった。

ずっと、居場所を求めてうろうろしてきた人生だったと思う。同級生とうまくいかなくて何度もぐずぐずしていた中学の吹奏楽部がそれでも楽しかったのは、私にテナーサックスというパートが与えられて、それが私の居場所だったからだと思う。先輩だったり後輩だったり、他のメンバーという替えのきくパートではあったものの、それでも私は中三時にはテナーサックスのリーダーで、引退するまではそれが私の居場所だった。

親の希望の通りの高校に入って、そこには自分よりもいい成績を修める人が320人くらいいて、私は底から数えて恐らく何人か目だった。よその学校で優秀だったはずの同級生が、ぽろぽろと崩れたスポンジケーキの端っこみたいに、気が付くと学校からいなくなっていた。私も崩れるつもりだったのに、通信制とか行きたかったはずなのに、なんやかんや卒業出来てしまった。当時私を支えてくれたほんの少しの味方(友達だったり先生だったり)のおかげだと、今だから言える。ありがとう。でも、あの頃はそんな風に思えなかった。もがいていた。未成年の子供には、いろんなことを理解できる余地は無かったのだ。

それこそ、今だから思う。明確な悪意を持って私にいやがらせしてきた同級生なんて、小学校時代から、きっと一人もいなかった。

大概、親との関係なんかで、子供は容易く歪むのだ。幼少期にどんな環境に在ったかというのは、恐らく物凄く大きいのだ、人の心を形成する上で。

私の容姿にめちゃくちゃな悪口をかましてくれたSくんは、お母さんが離婚してどこかへ行ってしまった。何かとあれば私のやることにケチをつけてくれたTさんは、母子家庭で十人くらいのきょうだいとアパートで暮らしていた。

彼らは不幸では無かったかもしれないけれど、不便だったり不自由なことはあったと思う。そういうものが無意識に溜まっていって、私にぶつけてくれたっていうのなら、なんていうか逆にかわいそうになってしまう。あくまで当時の彼らに対してだけれど、抱き締めて撫でてあげたい。否、気持ち悪がられて終わりか。

世の中には赦されないいじめも多くあるので、全部が全部だなんて言わない。只、子供っていうのは分別つかないことが多い存在なのだろうなあと、大人になってそう思う。

話を戻そう。

私は、夜間部の大学に入って、それなりに色んなことを夢見ていたはずだけれど、くじけた。お金を稼ぎながら学校に行くのがどれだけ大変かも理解した。だから、世の中の苦学生ってマジで凄いと思う。私が大富豪だったら、めっちゃお金をあげたい、そういうコに。

そういうどろどろした疲れの中で、バイトからも逃げて、三十万くらい口座に入ったままの奨学金を食いつぶしながら生活するというどうしようも無い毎日を、私はしばし過ごした。

一応、求人誌にあった「ライター募集」という確か普通のレンタルビデオ屋さんを名乗っているお店の面接には行った。ビデオ作品のレビューを書くとかそんな感じだったと思う。いざ行ってみたらアダルトのお店だった。面接官の髭面のお兄さんも私も二人して困惑し、当たり前の様に不採用になった。

とにかく、そんな生活の中で件のカフェは、地下鉄代も浮かして歩いたり自転車に乗ったり、コーヒーに入れる為に牛乳を買っていたのを、量の割に賞味期限が長いという理由から豆乳にして、結局傷ませておなかを壊したりしている私にとって、たまの贅沢であり憩いの場所だった。

最近、思うのだ。私は長らく、あのカフェでぼんやりしていた時の気持ちを、心の奥に封印してきてしまって、まったく向き合ってあげていなかったと。

私は子供の頃からメンタルがぐずぐずだったし、そういう系の遺伝というのは無い!ともしかしたら偉い人が論文を書いているかも知れないけれど、自分の母や、その姉であるおばが軒並み幻聴を聴いて精神科のお世話になっている辺り、きっと母方の家系にはメンタルがぐずぐずになりやすい特性があって、私もまたその内の一人なのだろう。

社会や家族の為に身を粉にして働いている人はうつくしいし、偉大だ。けれども私には、きっと難しいことなのだ。バイトを三個掛け持ちしてしばらく頑張ったこともあったけれど、それだっていきなりぷつんと糸が切れて、必ずどれかをまず辞めてしまって、最終的には全部長続きしない。そういうことを何度か繰り返してきたではないか。

学校に来ている生徒には、昼の学部に落ちたからという理由で、夜間部に来ている人もそれなりに居た。そういう人は日曜とかの授業の無い日にちょこっとバイトをすればいいだけだったらしく、そういう話が教室の中で聴こえてきたのを耳にした日にはもう、私は発狂しそうになった。

本当は、まったり生きたかった。

バイト先の同僚の何人かは凄く好きだったし、そんな仲間と働くことは本当に楽しかったけれど、いかんせん会社がどブラックで、店長もおかしいくらいに厳しくって、自分の慕っていた人が(言わないけれど店長のことが理由で)辞めてしまった時は、理不尽さにむしゃくしゃした(程なくして自分も辞めた)。

ローズヒップのお茶を、あのタトゥーのお姉さんから手渡されて飲んでいる時、私は「まったり」できた。これが「日常」ならばどんなにいいことか。こんなささやかであるはずのことをハレの日になんてしたくなかった。

今は音楽をなりわいとしていると公言しまくれるように努力している最中だけれど、副業のつもりでやっている、辞めてしまったら生活が成り立たなくなる方の仕事が、時を追うごとにしんどくなっていっていてつらい。

以前はそのしんどさに蓋をして、これだって人見知りを解消させる為の練習!…だなんて無理矢理プラス思考に持って行っていたけれど、気持ちに蓋をするのは良くないですほんと。

そもそも、人に会うのが苦手で、ご近所さんですら遭遇する度にとてつもなく緊張するのが私の性質なのだ。気心知れた人以外を家に呼ぶのも苦手。なのにどうして、お客さんちに行って代金をいただいてくるお仕事を頑張っているのやら。たまにこうして「ほんとは嫌でしょ?」って自己確認しないと、またとんでもないタイミングでぶっ壊れてしまいそうなのだ。

書き物も好きだから書き物でも勿論、音楽とかそういう好きなことで、お金をいただいて生きてゆけるように「しなければ」ね。それが、ローズヒップのお茶を飲みながら、お姉さんの指を眺めていた私の、心からの願いでしょうに。そして、大学は出られなかったけれど、それでもちゃんと好きなことでお金を得ている自分になることが、私にとって必要なんだよね。自分自身に証明してあげなくては。

そういう生活が私に「まったり」を与えてくれる、と、私は信じている。今もまったりは出来ている。けれど、心からの「まったり」が欲しい。

心からの「まったり」を得られたと心底思えた暁にはまた、あのカフェみたいに落ち着ける場所で、ローズヒップのお茶が飲みたい。お砂糖は勿論、野暮ったい黄土色のかたまりがいい。

頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。