『「マイナス内包」としての性自認の構成』について

私も今話題の谷口一平氏の論文『「マイナス内包」としての性自認の構成』読んでみた。
経緯

・哲学者、谷口一平氏が日本大学哲学界『精神科学』に投稿した性自認に関する上記論文がジェンダー学者(査読コメントからの推定)の査読により、「有害性(不要な攻撃性)を孕んでいる」ため、不採用となる。

・谷口氏がtwitterに査読コメントを公開して反論。

・論文が雑誌『情況』(2024冬号)に掲載される。

https://togetter.com/li/2282072

要は査読者が「この論文はトランスジェンダーへの認識が誤っており、かつ差別を助長するため掲載すべきでない」と判断したということなんだが、問題は、谷口氏がお怒りのとおり、到底差別的な内容とは言えない、ということなんですよね。以下、私の要約↓

 「自分のことを女性(男性)だと思っている」という「性自認」を、内的な自己確証可能な体験だと仮定するとしても、それは私的言語であり、公共的基準を持たないため、哲学的に構成不可能である。私的言語が存在し得ると認めるとしても、外的脈絡との関係において成立する感覚である「第一次内包」、脈絡からは独立するも当人には判別可能である「第○次内包」は成立し得るが、「性自認」は感覚語ではないため、有意味な信念として言語運用することが出来ない。

 性を自認するという現象は発生論的に「私はある身体として、客観的世界の中に存在している」(原罪/主体の開設)という認識が成立した後に生じるものであるが、同時に、その認識論的順序が、存在論的に顛倒し、私が最初から「男」だったから「私が男である」という認識が成立する(マイナス内包)。

 さらに主体の開設と同時に、自身から開闢している可能世界は他者を原点とするものでもあり得た、例えば異性から開闢していた可能性もあり得たとの認識が生じることにより、マイナス内包としての性自認が生じる。

 この際、世界が異性から開闢されていた可能性を担保するものが、古代人の信じた、物質的基盤を有さない魂ではなく、超越論的統覚の物質化形態としての脳ではないか。すなわち、トランスジェンダーなる観念は現代科学を前提とした、本質的に現代的な観念ではないか。

要約終わり。

私には哲学の素養が無いし、感覚的には普通のことも書かれているので、論文を読んだところで「まぁ、それはそうなのではないか。」くらいの感想しか沸かないし、この論文が哲学的にどの程度の意義があるのかは、全く分からんのだが、確かに谷口氏がブチ切れているとおり、査読者の理解に問題があることが、ド素人が見ても明らかなんですよね。特に査読①の冒頭は酷くて、いきなり「本論文は、特にトランスジェンダーの「性自認」がいかにして可能になるのか、という問題」を扱っていると書いているが、私の理解が正確なら、別にこの論文は、取り立てて「トランスジェンダーの性自認」を扱っているわけではない。あくまで、一般的な性的身体の自己理解の成立根拠を論じたものであって、トランスジェンダーに直接触れるのは最後の脳を扱う箇所くらい。しかもこの部分もあくまで、脳という物質がなければマイナス内包の構成が出来ないのではないか、という可能性の示唆が中心的議論であって、トランスジェンダー自体は枝葉なんですよね。

査読への批判は他の箇所も概ね、谷口氏のとおりだと思うが、そもそもの問題はこのようなレベルの低いジェンダー学者(推定)が、自らの政治的思想に基づいて検閲を行ったこと。論文が誤りを含んだものであったとしても、それが公開されなければ、誤りがあったことすら確認することができない。批判があるならば、それは公開の場でなされるべきであって、最初から論文を抹殺することは最も学問的な態度からほど遠い。私も論文が(本来、掲載しようとした雑誌とは異なる雑誌からではあるが)公開されたからこそ、氏の主張の妥当性を確認できた。人文学内に今回のような方法で対立意見の抹殺を目論むジェンダー学者がいるならば、正に学問の敵と言わざるを得ない。


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