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いだてん噺

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記事一覧

[いだてん噺]テニス大会

岡山高等女学校に入学した絹枝は、父の教えを守り勉学に勤しむ。
一番好きな科目は歴史と生物で、最も嫌いな科目は英語と数学だった。

一学期の成績について、絹枝は自著で書いている。

二学期に入り、県のテニス大会が近づくにつれ、岡山高等女学校の校庭は軟式テニスの練習でにぎわっていった。
当時、女学生の課外活動として軟式テニスがもっとも人気があり、岡山県内では、絹枝の通う岡山高等女学校と岡山女子師範学校

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[いだてん噺]大正九年 春

岡山高等女学校の入学許可書を受け取った際に、父の猪作氏は絹枝を茶の間の仏壇の前に呼び、こう言った。

絹枝は涙して父に勉学にはげむことを誓ったのだった。

絹枝の村から岡山高等女学校に入学したのは絹枝ただ一人で、隣の村には一学年上の人がいて、ふたりで毎日一里半(役6キロメートル)の道を、意気揚々と通ったと絹枝は自伝に書いている。

絹枝と同じ学級に、絹枝ほどではないが背の高い少女がいて、二人は友人

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[いだてん噺]オリンピック

絹枝が岡山高等女学校に入学した大正九年(1920年)、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック大会が開催された。

日本がオリンピックに初めて参加したのは、明治四十五年(1912年)にスウェーデンのストックホルムで開催された第5回オリンピック大会からであった。
国際オリンピック委員会 会長クーベルタン男爵からの参加の誘いを受けてのことだ。

参加選手は短距離走・三島弥彦とマラソン・金栗四三のわず

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[いだてん噺]小学生の頃

人見絹枝の自著は上記の書き出しから始まる。

一農家と書かれているが、裕福な自作農家であった。(「二階堂を巣立った娘たち」より)

活発な少女であったようで、幼い頃は家の前の小川をせき止めて小魚を取って遊んでいた。小川ではフナ・ナマズなどが獲れた。
獲れた魚を持って絹枝が帰ると、父・猪作氏は叱ったそうだ。

当時を考えれば、父・猪作氏が先進的考え方をする人物であったことがうかがえる。

絹枝は活発

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[いだてん噺]聖火リレー1964

1964年(昭和39年)9月7日。沖縄・那覇空港に「シティ・オブ・トウキョウ」号が到着した。9月6日到着の予定だったが、台風のため1日遅れとなった。

那覇空港到着後の記者会見で、日本航空聖火空輸特別派遣団、森田団長が無事到着した安堵の気持ちから言った言葉が沖縄の人々に大うけしたという。
「やっと日本に帰ってまいりました」

奥武山陸上競技場に向け聖火リレーが始まり、同日午後1時に聖火ランナーが競

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【いだてん噺】
 
『午后の陽の照れるコートに我が打てるボールの音の高きうれしさ』
 
誰の歌かご存知でしょうか。これは日本最初の女性メダリスト人見絹江さんの歌です。

今後、折をみて人見絹江さん・前畑秀子さん、ふたりの「いだてん」の歩みを見ていきたいと思っています。