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【歴史のすみっこ話】桶狭間で勝者と敗者を分けたのは何ですか?=その1=

きっかけは、こちらの千世さんの紀行文です。
こちらの紀行文の中に、「桶狭間の戦い」について書かれているのを拝見させて頂きました。
この中で大きく2つの疑問を提示し、ご自身の見解を書かれています。詳しくは記事をご覧いただければと思います。

ボクは、本を読んでて桶狭間の戦いの記述があると、あー、はいはい、桶狭間ねー。何度もいろんな本(だいたいコミックだけど)で読んでて、経緯とか結末がわかってるから、もう細かい説明はいいわーと言う感じで、パラパラとページを飛ばして読み進んでいたのですが、よくよく考えれば、いろんな重要なことを、ほとんど無視してたわー!😱と思ったわけです。

というわけで、家にある桶狭間の戦いについて書かれている本をもう一度読み直して(というか、今度こそちゃんと読んで)、学びなおしてみたいと思った次第です。

といっても、あくまでも現在の定説の範囲内のことしか書かれていない、「桶狭間の戦い」の本しか持っていないので、新たな異説を知りたい方には、いまさらという感じになるかと思いますが、そこはご容赦ください😓。

基本的に参照するのは、一次資料に準ずると言われる太田牛一の「信長公記」です。
歴史において一次資料とは、同じ時代に書かれた手紙や日記などの書類を指すものと考えてください。(ただし、勘違いや伝聞による記述などもあるので、他の一次資料との照らし合わせ作業が必要になるケースもあると思います)

太田牛一(おおた ぎゅういち 1527-?)は、織田信長につかえた武人で、信長亡き後は、豊臣秀吉につかえ、検地奉行を務めたといいます。
そして晩年、日記などをもとにして織田信長の一代記として「信長公記」を著しました。

残念ながら、記憶や伝聞による部分もあるためすべてが事実とは言えない箇所もあるようですが、織田信長の一代記としては一次資料に準じ、最も史料的に信頼できるものとしてのスタンスを確立しています。
(もっとも、自筆本や写本がいくつかあって、それぞれに差異があるようですが、そこは大目にみてもらって^^;)

ボクが持っているのは、角川から出ている「現代語訳 信長公記」です。

すみません、現代語訳で楽してます。っていうか、読めると思ってます?戦国時代当時の文章が、このボクに!(# ゚Д゚)逆ギレしてすみません。

さて、さっそく、桶狭間の合戦の箇所を見てみましょう。

永禄三年五月十七日、今川義元は沓掛に陣を構えた。
「信長公記」太田牛一著 中川太古訳

・・・ちょ、義元がいきなり、尾張との国境まで来てるとこから初めてますやん!( ゚Д゚)
その前!その前に大事なことあるでしょ!。なんで尾張を攻める気まんまんなのかとか、色々と!。

まぁ確かに、戦国時代、常識的に考えて、今川義元が、「じゃ、これから尾張を攻めるため、沓掛に陣をかまえますから、よろ」とか宣戦布告みないなこと事前にいうわけないですけど。

次回は、なぜ今川義元が尾張に攻め入ろうとしたのかについて、いくつかの説を書いて行こうと思います。

■現時点で主流といわれる定説その1

今川義元は京に上洛する過程で尾張を攻めた。(主流でない上洛説)

 今川義元は京に上洛するつもりはなかった(現在主流の非上洛説)

(つづく)


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