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砂金。ー古文漢文不要論についてー

毎年受験シーズンになると流れてくる古文漢文不要論。
「古文や漢文は学習に時間と労力が必要な一方で、現代社会で使用する機会は少なく、目に見えた成果が少ないから。」
というのが不要論の大筋かな。

そもそも不要論を唱える人々は古文漢文を実社会で使用しなかった勢力で、必要論を唱える人々は使用した勢力。
つまり使ったから必要、使わなかったから要らない。
だからこそ、この議論は永遠に平行線で毎年こういった議論がなされているんでしょうね。

それでも敢えてこの不要論に対して批判をし、必要性を説くのであれば、「古文漢文を受験科目として意識しすぎているから」、に集約されます。

というか、英語や現代文も含めた言語学全てに言えることではあるんですけど、言語学を「言語の無機質な構造分析学」と理解しているきらいがあるんですよね。
古文のサ行変格活用だとか、英語のif構文とか、漢文のレ点とか、現代文の二項対立。
こういった構造を把握する”道具”は、道具であって本質じゃない。

こういった構造を把握して何がしたいのか。
それは文章を理解したいんです。
言語学をもっと読み物として楽しめばいいだけなんです。
この姿勢が何よりも大事なのかなと。

だから古漢において大事なのは、文章の読み方を覚えることじゃないんです。
確かに文章の読み方を覚えることは重要です。
でもその先にある文章を楽しむことの方が遥かに重要。

「春は曙。段々と白くなってゆく山際が美しい」という清少納言の感性を読み、「春は日中の暖かく穏やかな風が木々を鳴らす情景が一番美しいだろ」と思ったり、「冬の早朝、冷え切ったフローリングに踵から目覚めさせられ、急いでストーブ着けに行くのって、昔とさほど変わってないんだな」と共感したりすることが大事なんですよね。

「寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ。」
大きな集団の下っ端になるくらいなら、小さな集団のトップであるべき。
とかいうけど、小さな集団のトップで収まってていいのか。
って思ったり。

ぱっと自分の中で枕草子とか史記の一節が出てくる。
これは僕に良い意味でも悪い意味でも、”何か引っかかったもの”があったからだろう。
こういった”引っかかり”を与えてくれるのが読み物だと思う。
無数の文字から砂金のような一つまみの”引っかかり”。
自分の中で確かな価値として残っていく。

古文漢文。現代文だって英語だってそういった砂金が見つかる「かもしれない」学問。
確かに無数の言葉という”川”から砂金が見つかる可能性は絶対じゃない
ただ川に入って、言葉を自分という”ふるい”にかけ、砂金が見つかるまではその重要性には気づけないかもしれない。
それでも砂金が見つからなかったからといって「川を潰してしまえ」というのは暴論すぎやしないか

更には”砂金”とはあまりにも小さい。
ダイヤモンドや金塊のような目に見えた財宝とは違い、その”砂金”も幾つかあって初めて価値となるもの。
単体ではその価値には気づきにくい。
だからこそ具体的にどう役に立ったんですか?なんて疑問も出てくる。

古文も漢文も、言語学は”砂金採り”なんですよね、きっと。
だから重要性にも気づきにくいし、必要性を説くことも難しい。

けれども僕は読み物として面白いし、楽しいし、僕の血肉となっている気がする。
だから古漢は必要な気がするんですよね。
気がする、だけなんですけどね。
でも気がするだけでも十分なのかな、なんて思ってしまいます。

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