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人生コント説

僕らは”人生”というコントを生きている。
脚本も筋書きも、きっとない。

ただしかし、一つだけ存在するものがある。
それは役割だ。

この世の全ての人はそれぞれ何かしらの役割を演じている。
この”note”というコントでは、僕は「ノルウェーで留学をしている東大院生」という役割になる。
”家族”というコントでは「24になってもまだ親のすねを齧り続ける愚息」という役割かもしれない。
”ノルウェー”というコントでは「留学中の外国人」という役割だろう。

みな何かしらの役割を抱える。
そしてコントの場が異なれば、異なる役割を担う。
仮面を付け替えるように。

この役割というものから解放されることはひと時たりともない。
それはコントという性質上逃れられないのだ。
「私という個人を見て」という声すらも、”役割からの解放”というコントにおける役割と化してしまう。

そしてこの役割が世の中の問題を生み出してしまう原因でもある。

”コンビニ”というコントを見てみよう。
そこには二人の登場人物がいる。
「店員さん」と「客」の二人だ。
このサービスを提供する側とされる側。
コンビニというコントの中を生きているからこそ、店員と客という役割に目が行く。
この役割を意識し過ぎた結果、「店員に横柄な客」というものが爆誕する。

”職場”というコント。
そこでは「上司」と「部下」という役割がある。
命令を出す側と受ける側。
職場というコントを生き、役割を意識しすぎると「パワハラ」といった問題が生まれる。

ジェンダー問題や、格差問題。
今、巷であふれる問題の多くはこういった役割に目が行き、その人の持つ”人間性”が蔑ろになっているから。

では、この”人間性”とは何か。
その”人”を理解する、ということは、「その人の演じる様々なコントを見ること」だと考える。
”家族”というコント、”職場”というコント、”趣味”というコント、”恋愛”というコント。
どれか一つだけではその人を理解することはできない。
その一つから理解できることはそのコントでの役割でしかない。

「私という個人を見て」という声が儚く散るのは、人間が様々なコントを同時に生きていることを理解していないからだ。

様々なコントを見せつけてやればいい。

そこに人間性が現れるのだから。

備考:


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