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映画「PERFECT DAYS」

本日、トロンハイムで日本映画「PERFECT DAYS」を観に行った。
ここに書き記すくらいだ。
とっても良かった。
あんなに美しく心に残る映画はないように思う。

映画全体を通してのメッセージは一言で「無常観」だろう。
役所広司演じる主人公、平山。
公衆トイレ清掃員として働く彼は、小便器の裏の汚れすら許さず、玄関先の小さな棚には貴重品が整然と並べてある。

時計の針のように淡々と毎日を繰り返す平山。
朝起きて歯を磨き、髭をそり、植物に水をやり家を出る。
公衆トイレを一切の手を抜くことなく入念に掃除し、昼食は境内でコンビニのサンドイッチと牛乳。
揺れる木々を一枚必ずフィルムカメラに収める。
夕方には大衆浴場へ。
地下の改札周りにある居酒屋で食事をとり、自宅の布団の上で眠気が訪れるまで本を読む。
その日一日の断片的な揺らめく光景を夢に見る。
毎日この生活を刻み続ける。

スマホ片手にSpotifyで音楽を聴く現代人とは裏腹に、平山は本にガラケーにフィルムカメラにカセットテープで音楽を聴く。
つい最近まで何かが建っていた更地を目にしても気にも留めないほど変わりゆく現代。
そんな中、平山だけが変わらずにあろうとしているように思えた。
変われなかった、のかもしれない。

「ずっと変わらなければいいのにね。」
なんて平山の行きつけの女将は言う。
それでも無情にも、変わろうとしない平山の生活すら、毎日何かしらの変化が訪れる。

姪の家出という出来事と共に自らの家での過ごし方は変わるし、同僚のタカシが突然辞めることで同僚も変わる。
夜飯の居酒屋が混雑していればいつもの席ではなかったりする。
行きつけの女将の、元夫との抱擁を目にし店を後にしたりすることも。
毎日のカセットテープ一つとっても同じ曲はないし、同じ夢は二度とはない。
何かは少しずつそして確実に変わり、それは人生最大の変化である”死”へと向かう。

だからこそ平山は姪に「今は今。今度は今度。」といった言葉を投げたのかもしれない。
何一つとして同じではない日々だからこそ、今という瞬間を生きなければならないんだ。
そういう強い想いを感じた。

また、平山と女将の元夫との会話。
がんが転移し人生最大の変化が差し迫っていることを自覚した彼は平山にこう零す。
「影は重なると濃くなるんですかね。こんなにも生きてきてそんなことも知らないのか。」と。
ああ凄く美しい。
人生における影なのか、性格における影なのか、はたまた実際の影なのか。
何年も生きてきて色々知った気になったけれど、そんな単純なことも知ることなく死んでいくのか。
そんなやるせない悲痛な哀しみを感じます。

そしてそれに対してやってみましょうと言う平山。
出した答えは「影は重なっても濃くならない」と。
辛い出来事は重なり更に辛くなるという訳ではない、と言いたげな平山の穏やかで優しい表情。
もしくは知らないことがあっても今から知ろうとすればいいと励ましたのか。
平山の真意はわからなくても、彼の励ましの意図は伝わった。
サングラスをかけ影の濃淡なんてわからないはずの元夫も「そうですね」と涙ぐむ。
なんて優しい時間なのか。

この映画で一番胸を打った言葉。
「世界は全て繋がっていそうに見えて、交わらない人もいる。」
トイレという物を介して僕と平山は繋がっている。
それでも彼と僕とが交わることはない。
平山とホームレスも繋がっていそうで交わらない。
僕の知らないところで平山のような人間が、変化に抗いながら確かに生きている。

認知症で以前とは”変わった”父親に対して何一つ”変われていない”平山。
ファインダーに目を通さずに動く木々を切り取る平山。
きっとこの変わりゆく現実に目を通せないのだろう。
衣食住を楽しもうとせず、作中、彼が家で食事を摂ったのはいつのものかも分からないカップ麺だけだ。
それでも少しずつ現実を受け入れ、死をも受容しようとする平山のラストの表情は心の琴線を鷲掴みにするものがあった。

日々の、そして人生の儚さや、やるせなさといった不完全さと向き合っていく、平山そして人間の美しさや強さといったものを描いた作品なのだろう。


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