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"お笑い"というアート

エネルギーチャージということで、今日は一日家でネトフリDayをした。
「Jimmy ~アホみたいなホンマの話~」という、芸人であり画家の大西ジミーちゃんの話を観てた。
笑って泣けていいドラマだった。

僕がジミーちゃんを好きになったのは正月のガキ使だったと思う。
今はもうやっていない、「24時間笑ってはいけない」。
(また再開してくれないだろうか…)
毎年毎年、どこでジミーちゃんが出てくるか凄く楽しみだった。
腹がちぎれるくらい笑った記憶があるし、純朴そうなジミーちゃんの笑顔が好きだった。
というか今も好き。
あれだけ素で人を笑わせられる人、傷つけることのない穏やかな爆笑を僕は他に知らない。

ジミーちゃん役の中尾さんの演技も素晴らしく、本当にジミーちゃんそのもののように錯覚するほどだった。
因みにこのドラマは2018年に公開された6年前のものだ。


芸人
一般的に芸人というとき、お笑い芸人のことを指す。
芸人とは芸事に精通する人間のことで、お笑い芸人はその中でも人を笑わせることに特化した人間。
お笑い芸人も、作曲家や画家・俳優などのアーティストと同様に神聖化されてきた。

思うと、芸人の作品、もしくは芸人を題材とした作品は数多く世に輩出されている。
本や映画やドラマ。
媒体は様々だが、芸人に対する世間の興味や好奇心がなければこういった作品は生まれないし、流行らない。

お笑いもアートだ。
文脈、空間、造形に依存したアート。
そしてお笑いは音楽や演劇に近い側面がある。

それは”演じ手”が必要不可欠であるということ。
演じ手が必須であるということは、その時代の人々に受け入れられ、消費されることが、絶対的に必要なのだ。

どういうことか。
お笑いは絵画と異なり、死してから評価されるということが有り得ない。
演じ手の人生という短い時間の中で、大衆を巻き込み、評価を得なければならない。
”生もの”の作品。
消費期限の明確にある作品だ。

確かにその消費期限が”ネタ”という文字に起こしたとき、そのネタ自体は消費期限から解放される。
その分かりやすい例が”落語”なのだろう。
これは音楽や演劇といった、同じ”生もの”の作品についても言える。
楽譜や脚本といった作品は、時間という制限からは解放される。

しかし、そうは言っても、これらの時間から解放された作品も日の目を浴びるには、一度解凍し、”生もの”に戻してやる必要がある
つまり再び演じ手が必要なのだ。
一時文字として冷凍された作品も、演じ手により生きた作品に戻す。
そしてその”生もの”を評価してもらうことが絶対的に必要なのだ。

今後、AIの台頭により文字による冷凍作品は数多く出回るだろう。
「AIによるゴッホの新作」なんてものもあるくらいだ。

ただ、お笑いというアートは今後もしばらくは消えることはない、と僕は信じている。
どこまでいっても演じ手が必要なアート。
ネタがAIに依存するものとなったとしても、演じ手が必要なアートである以上、そのお笑いは人の手の介入を避けて通れない。
そのお笑いのアート性が破られるにはまだまだ時間がかかるだろう。

お笑いがアートであるからこそ、他のアートとの親和性も高い。
芸人であり画家であるジミーちゃんを始め、画家や映画監督、音楽活動、執筆活動など様々なアートに活動の幅を広げる芸人さんは多い。
それは図に乗っているなどではない。
”お笑い芸人”というアーティストであるからこそ、他のアート作品にも手を出す。
彫刻家であり画家であり建築家でもあったレオナルドダヴィンチのように。

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