見出し画像

「自然」の反対語は「人工」か?   ~「考え中」のこと(1)

ものすごく突っ込んで調べたり考えたりしていることではないのですが、漠然といつも思っていることってありますよね。自分の中で、何か結論が出ているわけではないのですが、現時点での「考え中」の内容として、ここに書いておきたいと思います。

今回の「考え中」は、「自然」の反対語は「人工」なのか、ということについてです。

反対語にもいろいろある。

小学生の頃、いろいろな言葉を覚えるためということなのだと思いますが、反対語というのをセットで勉強しました。「上」の反対語は「下」、「右」の反対語は「左」という具合です。

「上」「下」とか「右」「左」という組み合わせは、もともと、反対の概念(反対の意味内容)があって、それぞれにそういう名前をつけたというものだと思います。なので、「上」の反対は絶対に「下」であり、「右」の反対は絶対に「左」なのです。

「賛成」と「反対」、「酸性」と「アルカリ性」、「プラス」と「マイナス」なんかも、これに入るかもしれません。ただ、「プラス」と「マイナス」は、数字について言っている時は絶対的な反対語かも知れませんが、工具のドライバーについて言っている時は、「反対」というよりは、「対称」とか「ペア」というような感じもします。

「男」と「女」も、「反対語」として習いましたが、どうなんでしょう。近年では、「男」と「女」に分類しきれない人もいることが広く認識されるようなっていますよね。

このように、そもそもの概念上、絶対に反対を意味する言葉もあれば、ある一定の価値観や社会的な「常識」の中で、「反対を意味する」と教え込まれてきたものもあるわけです。

「自然」の反対語は「人工」なのか

そこで、そもそもの「『自然』の反対語は『人工』なのか」ということです。この「自然」と「人工」も反対語として習いました。少なくとも私の世代ではそうでしたが、今はどうなのでしょう。

(ちなみに、「自然」⇔「不自然」という反対語の組み合わせがありますが、その場合の「自然」と、ここで言っている「自然」は別の意味です。ただ、もとをただすと、同じ意味に行きつくような気もすますが。)

確かに、山や森林、海や川、湖のように、人間がこの世に出てくる前から存在していたものと、煙もくもくの工業団地とは、ずいぶんと違うもののように思えます。パッと見の印象では、「別物」です。

「手つかずの自然」という表現がありますが、この「手」は人間の手ですよね。「手つかずの自然」を「自然のままの風景」というふうに肯定的にとらえる人もいれば、「未開拓の荒れ地」というように、やや否定的なもの、ないし挑戦していかなければいけない課題のようにとらえる人もいるでしょう。いずれにしても、人間が「手」をつければ、それは本来の自然から変化するという考え方が前提にあるわけです。

けれど、どうなのでしょう。人間が動物の一種であることには、異論をはさむ人は少ないでしょう。すると、キツツキが木に穴をあけて巣をつくったり、モグラが地面を掘るのは「自然」なのに、人間が生活のために森を切り開いて農地をつくる行動は、「自然」の一部ではないのでしょうか。

キツツキやモグラの行為は、それ以前の自然の状態に変化をもたらします。全体からすると、ごくわずかな変化ということなのでしょうか。でも、ある種のアリは、大群で移動し、その通り道の木々や葉っぱをあらかた食い尽くすといいます。それも「自然」ですよね。

人間のように道具を使わないということでしょうか。でも、ラッコはお腹に乗せた貝を石で割りますよね。あれを「自然ではない」という人はいませんよね。

なぜ「自然」と「人工」は反対語になったのか。

私の言いたいことは、すでにおわかりと思いますが、「自然」と「人工」は反対語ではないのではないか、ということです。

多分、「自然」と「人工」を反対語とする考え方の背景には、人間が厳しい自然環境と闘ってきたことがあるのでしょう。自然の猛威にさらされてきた人間が、自らの命を守り、生活を成り立たせ、より健康で長く生きられるように、また自分より子供たちが少しでも楽に幸せに生きられるように、知恵と道具とチームワークで生活環境を改善してきたのです。

その結果、特に目に見える形で大きくなり、増えっていったのが「道具」でしょう。はじめは、石ころや動物の骨、木の枝だったものが、いまや超高層ビルになり、工業団地になり、飛行機やさらには宇宙船にまでなりました。その過程で、「自然」はつねに挑戦の対象だったわけです。

そして、人間の「手」によって高度化していった「道具」は、「人工物」と呼ばれ、それ以前の「自然」状態と区別されるようになったのでしょう。そしてその「人工物」の巨大化や増殖は、時として「自然破壊」と呼ばれ、批判の対象となりました。その流れで、「自然」と「人工」は対立・対抗する概念として定着していったのだと思います。

「人工」も「自然」の一部ではないか。

「自然」と「人工」を対置させる考え方は、ひとつの物事の整理の仕方としてあり得るとは思います。しかし、それはあくまで人間を特別な存在としてとらえることから来ているような気がします。

しかし、あくまで人間も自然の中から生まれた生物であり、自然の一部であるはずです。「人工」というのは、キツツキが木に穴をあけたり、モグラが地面に穴を掘ったり、ラッコが貝を割るのに石を使ったりすることと、同類のことではないでしょうか? そこに程度の差、つまり「量」の違いはありますが、「質」の違いはないと思います。

比較的受け入れられやすいのは、棚田の光景でしょう。山の斜面に、その斜度や広さに応じて、形を変えて組み合わされた何枚もの田んぼの風景。それは明らかに、人の「手」が入ったものですが、かなり「自然」だと思いませんか? それはあくまで、人間が生きていくための必要から行ってきた行為であって、それこそが「自然」ということでしょう。

であるとすれば、農業のような一次産業だけではなく、二次産業や三次産業だって、生きてくために必要だから行われてきたわけで、区別する意味はないような気がします。もちろん、産業に必要な設備だけでなく、生活上必要な設備や工夫もそうです。

そう考えると、先ほどの棚田の例だけでなく、林立するビル群の眺めや、工場夜景なんかも「自然」の風景と言えるかもしれません。古いビルの裏側一面に、エアコンの室外機が準規則的にたくさん並んでいる様子も、「自然」の眺めかもしれませんね。私が何回か投稿している「電柱のある風景」や「電線アート」もそうなりますね。


「自然」に収まらない「人工」もあるか?

「人工」も「自然」の一部であると考えたとしても、それによって「人工」がすべて正当化されると言っているわけでもありません。生物は、生きている以上、「自然」の一部である生態系に何等かの影響を与えることになります。それは、ごく「自然」なことです。

しかし、そのように他の生物、生態系に及ぼす影響は、あくまで生きていく上で必要な範囲にとどめるべきなのでしょう。人間以外の生物は、おそらく厳に必要な範囲でそれを行っているのだと思います。

それに対して、人間は、より豊かな暮らしを求めて、自らの技術が及ぶ限りの「改変」を続けてきました。それは本当に必要不可欠なことなのでしょうか。私たちは、生きるために他の生物を食べなければなりません。その際、必要以上の殺生をしてはいけない、また殺生して食べさせて頂く以上、感謝をして残さず頂かなければならない。そう思っている人は多いと思います。

しかし、直接口にする場合以外でも、生活を豊かにするために自然を改変すれば、まわりまわって他の生物を死に追いやっている場合があります。山を切り開いて線路や道路を通せば、そこにいた動物は暮らせなくなるでしょう。工場の廃液は水中の多くの生物を生きられなくするでしょう。そう考えると、どこまでが本当に必要なことなのかを、よくよく考えなければならないと思えてきます。

そこまで考えると、生きていく上で本当に必要不可欠な範囲を越えた「人工」は、「自然」ではない、ということになるのかも知れません。

この話、地球温暖化のことを考えると、特に強く感じてきます。自らの行いによって、自らも、そして他の生物も、生きることが難しくなっていく。そんな行為が「自然」なのか。もしくは、増えすぎた「種」が、減少する圧力にさらされることは、まさに「自然」なのか。

話が、あっちに行ったり、こっちに行ったりして、整理がついていませんね。この話、さらに考えていくと、原発とか、人工調味料とか、遺伝子組み合えとか、クローン技術とか、生命倫理とか、どんどんと話が広がっていって、いろんなことについての良し悪しの判断にかかわってきてしまいます。

冒頭で申し上げたとおり、私の中でも何か結論が出ているわけではないのです。引き続き考えていきたいと思っています。

お付き合いいただいて、ありがとうございました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?