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【メンブレ注意】就職して3日目に母親が亡くなった話(お葬式編・その後編①)

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2022年4月4日: 午前0時5分ごろ、PCR検査陰性証明書を片手に我々は看護師さんに案内され、母がいる病室に。看護師さんは「10分前(4/3の23:55ごろ)に呼吸が止まっていました…間に合わせられなくてごめんなさい…でもまだ身体は暖かいので手を握ってあげてください。」と仰せになりました。

恐る恐る手を握りながら母の顔を見ると、いかにも悶え苦しんだ顔で、今日この瞬間を迎えるまでの壮絶さが伝わってきました。

午前0時25分ごろ、母の主治医が到着され、死亡確認が始まりました。そして、午前0時28分、母親の死亡確認が完了し、正式に死亡が確定しました。我々親子は最敬礼のお辞儀を先生と看護師の方にしながら、「ありがとうございました。」と伝えました。

そのとき、何か1つの時代が終わったような感覚に包まれました。私は知らないけれど、もしかしたら昭和が終わった日はこんな感じだったのかなと思いながら、イオンのお葬式さんに連絡。

到着までにそれなりに時間がかかるとのことで、看護師さんの計らいでテレビもwifiも使い放題のデイルームで過ごしました。

デイルームに入るなり、人事の方に連絡。日付が月曜日に変わった真夜中にもかかわらず、メールに即レスしてお電話をくださった人事の方、本当にありがとうございました。

そして、FFの皆様の待つTwitterにエンカはしばらくできない的なメッセージ、心配してくださった方々へのご報告をかねて訃報ツイートをし、各種SNSを駆使して母の知り合いに連絡を入れまくりました。訃報ツイートについては、思ったよりも拡散され、FF内外問わずに弔リプをいただきました。弔リプをくださった皆様、本当に見ず知らずの人の母親のためにありがとうございました。うちの母親は見えないところ、しかも本人は1回も見たことすらないTwitterでも愛されていたんですかね。

連絡作業をしながら、葬儀屋さんが来るまでに寝ないように、「花束みたいな恋をした」、「約束の朝にさよならの花を飾ろう」みたいな、エモい映画を見てました。前者については、恋愛の終わりより圧倒的に永訣の別れの方が重いよな…と思いつつ、最後の方に有村架純と菅田将暉が「最後は笑ってじゃあねって言いたくて」ってお互いに言うシーンは何かお葬式にも通ずるものがあるなと感じました。後者の方は母子愛がテーマで、最後に子が亡くなるストーリー展開に何か感じるものがありました。自分が今、母親を亡くしたという現実とストーリーを重ねつつ、この映画の主人公の子のように老い切って死んだわけじゃない現実ある意味残酷だと感じた午前2時。

そうこうしているうちに、午前3時半ごろに葬儀屋さんが到着し、葬儀屋さんに移動。その前に、看護師さんが死後化粧や洗髪などのエンゼルケアをして、入院時に持ち込んでいたお気に入りの服も着せてくれていたようです。最後の最後まで本当にありがとうございました。

葬儀所に移動後、午前4時ごろに打ち合わせと死亡届の記入を行いました。入社早々、20代半ばで婚姻届でも出生届でもなく、死亡届、それも母親のものを書くとは去年の就活全落の私からしたら想像できなかっただろうと思う。

その後、家に午前5時ごろに帰宅し、午前5時半に倒れるように就寝。その後、午前8時ごろに起床して再度葬儀社の方と打ち合わせ。ここで、遺影の写真や火葬、簡易的とはいえ葬儀に呼びたい人のあれこれを調整しました。

その結果、火葬は4月5日の14時半~16時で決まりました。火葬所が込み合っているらしく、ここを逃すと次が4月11日(月)になるとのことで、かなりスピード火葬ではありますが、諸事情により、4月5日で決めました。そして、父親と相談した結果、母親が死ぬ最後の3年ほど仲良くしていた60代の三姉妹を招集することに。

午後1時ごろに再度帰宅し、三姉妹の招集、母親の知り合いへの連絡の続き、(私の)会社の人事の方とやり取り、副葬品の準備もしつつ断続的に睡眠をとり、翌日の火葬に備えました。 

余談ですが、実はこの三姉妹の三女がなかなかの写真の腕前。彼女には今回の遺影を提供してもらったのですが、ほぼほぼ加工なしで綺麗に使えました。ありがとうございます。三女さん。


4月5日:この日は葬儀当日。この日は午前10時に会場入りし、イオンのお葬式さんに課金した和装に着替えました。午前11時に葬儀を開始し、納棺を行いました。ドライアイスで冷やされ、すっかり軽くなってしまった遺体に改めて母親はもう目覚めないということ、壮絶な闘病だったということを感じました。

葬儀社の方に「故人が遺族を思い出せるもの」を入れて欲しいと言われたので、納棺の時にブリティッシュ・カウンシルのマイページからダウンロードした3/19日受験のieltsスコアレポートを投入。母親よ、この狂気の沙汰の集大成をご覧あれという気持ちで投入しました。OAは伝えてたけどサブスコアは伝えきれなかったからね。S&Wが詰んでるのはさておいて、他は見てくれたらいいなぁ。

納棺後、午後1時まで会社への連絡や母親の知り合いへの連絡(顔が広すぎて連絡が追いつかなかった)などをして葬儀所で待機しました。

午後1時ごろ、葬儀所から火葬所に向けて出発。母親が生まれた病院(今はファミレスになってます)、母親と火葬所に召喚した母親の友人の三姉妹の長女が出会った基金訓練の教室、母親の実家、私の生家、家族みんなでよく行ったショッピングセンターなどを霊柩車で駆け抜けて行きました。

その時に、king gnuの「白日」、「逆夢」、ジミーサムPの「from y to y」や米津玄師の「メトロノーム」、米津×菅田将暉の「灰色と青」、レミオロメンの「3月9日」、ケツメイシの「友よ」を聴きながら母親の顔を覗き込み、最期の別れを惜しみました。

午後2時ごろに火葬所に到着し、母親の友人の60代三姉妹と合流。ここでアクシデントが。なんと、葬儀社が手配してくれたはずのお坊さんがなかなか現れず。そして待つこと20分、まるで漫画版ドラゴン桜1の矢島くんのような雰囲気(以下、矢島くんと呼びます)のお坊さんがようやく到着。矢島くんに10分ほどお経を読んでもらい、三姉妹と父親と一緒に母親と最期のお別れをしました。

そして、午後2時46分、火葬が始まりました。焼き場には某パンのヒーローアニメに出てくる感じの釜がいくつも並んでいるのですが、そこに並べられた故人様たちの写真をしばらく眺めていました。並んでいるのはほぼほぼご高齢の方で、母親の夭折さが目立つ…と思っていたら、どう見ても自分と5個ぐらいしか変わらないんじゃないかぐらいの年齢の方のご遺影を発見。親御さんが完全に泣き叫んでいる。57歳の死去でもだいぶキツいのに、私より少し上ぐらいの人の死はキツいなぁ…ご心中、お察しいたします。

その後、火葬場の方に控え室に案内されました。そこに、故人の干支の置物(辰年生まれ)があるはずなのになぜか置かれていた干支は私の干支、ねずみ。あれ、私、もう死ぬの?

気を取り直して、三姉妹と故人を偲びました。生前は本当にお世話になりました。

そして16時ごろに火葬が完了。改めて母と再会すると、頭蓋骨以外はミサイルで爆撃でもされたのかレベルに木っ端微塵となっていて驚きました。驚きつつも、骨壺にお骨を入れていきました。

そして、午後5時ごろ、矢島くんは我々に戒名の入った白木の位牌を渡し、「四十九日法要はぜひうちで」なる営業トークを残してそよ風のように去っていきました。

その後、母親の友人の三姉妹の長女の車に乗り込み、食事場所へ。道中、母親のお気に入りの和菓子屋さんの工場直営店を発見。長女にお願いして寄ってもらう。これも何かのご縁なのかと思い、母の好きだったお菓子セットを購入しました。

そして故人の話で盛り上がること数時間、午後11時に帰宅。そのときに父親が「お前には何十年先も友達といえる人はいるか?いないよな…早いうちから勉強さえできれば何でもいいと育てたばかりに人としての思いやりや優しさに欠ける人を作り出してしまった…申し訳ないと思っている。1人で職員さんに焼かれることになっても強く生きてくれ」と言いました。いやいや、今言わないでよと思いながら死んだように眠りにつきました。

4月6日:この日は保険会社への連絡、引き続き母親の知人への連絡、母親の死去に伴う相続問題を任せていた弁護士さんに連絡などで1日が終わっていました。

あとは、母親が生前から「ワセジョ家(仮名)のお墓があるお寺の住職は煩悩の塊すぎて流石にキツいから、お付き合いを継続するのはなぁ…もしものことがあったら、法要はキリスト教式でできたらいいんだけど」と言っていたのを思い出したので、高校卒業以来ご無沙汰していたキリスト教教会に連絡。この教会には幼稚園から高校卒業まで、「宗教」の授業の課題のために隔週ぐらいで通っていたのですが、大学以降は無宗教のところに行ってしまったので、足が遠のいてしまいました。そんなこともあって、教会への連絡はある意味Go to MBAの推薦状依頼レベルの緊張が走りました。

教会員の方から主任牧師の方に取り次いでいただき、事情を説明。主任牧師の方は我々が全く知らない中年男性に代わっていましたが、早速法事の相談に乗っていただけるということで、4月8日に面談を設定。ありがとうございます。

休憩がてら、この日は高1の時に買った流通ジャーナリストの故・金子哲雄氏著の「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」(小学館,2012)を読破。そういえば、10年ぐらい前、彼もまた治療法が限られるどころが「ない」希少がんで闘病していたんですよね。彼の葬儀の挨拶文の中の「41歳で、人生における早期リタイヤ制度を利用させて頂いた」(P.204から抜粋)から始まる文はなかなかにエモい。57歳で死ぬのも早いが41歳は早すぎますって金子さん…。

次回に続く。

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