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-汽笛の鳴るトーマス氏は-

わたしは、音源の配信をしたり、書籍の配信をしたりしているから、その売上も定期的に確認している。

まとまった額にならないと引き落としができない配信元もあるけど、こんなわたしの音源でも、毎月たくさん聴いて頂いていて、とてもありがたく思います。

書籍も、読み放題ならず、きちんと購入してくれる方もいて、嬉しいです。

色んな意見があると思うし、色んな批判もあると思う。

わたしは、人格者ではないし、愚痴も多いし、暴言も少なくない。

それでも、例えば、コンビニで罵声を浴びるとき、レストランやカフェ、書店やドラッグストアで心ない言葉を浴び続ける日々に、ぐっと息を飲み干すとき、誰かの顔が思い浮かばないわけがない。

例えば、職場でも、家庭でも、知人や友人からも、その具体的な話の顛末も知らないのに、好き勝手なことを言われ続けている。

ほんとはぶん殴りたいし、胸ぐらを掴んで、地面に叩きつけてやりたいけど、いつも決まって、穏やかに息を殺す。

そのとき、誰かの、あの人の、あなたの表情を見ているわたしを、どこかで見ていてくれる人もいる。

わたしは、そう信じています。

今週末には、気になる絵画を、また観に行こうと思っている。

少しずつ、一歩ずつ、誰かの力になれる人間になりたい。

誰の目から見ても、きっと苦しそうに見えるであろう、わたしの人生のなかで、それでも、誰かの力になれる、わたしでいられるように。

人の足を引っ張るのは、気持ちいいかもしれないし、人より上に立つのは、気分がいいかもしれない。

でも、人の歩みを陰ながら応援することや、人のことを下から支えることは、もっと気持ちいいし、もっと気分がいい。

あまり報われないような日々でも、誰かの喜びを知り、その嬉しさを作れるとき、そういう時間や空間が、何よりも最高に素敵な時間や空間となる。

先日、noteの記事と、TwitterやFacebookの投稿には、かなりの温度差がある、と友人から指摘された。

まぁ、そうだろう。

あんまり、TwitterやFacebookなどで、聖人ぶっても気持ち悪いだろうし、そのことに気分を害する人も少なくない、ということを、わたしは充分に心得ている。

そういうコミュニティなのである。

その点、noteはやさしさを発揮できるコミュニティであるし、運営側も美しいものをこそ、ピックアップしてくれるような、やさしいコミュニティなので、わたしも心置きなく平穏な記事を書ける。

しかしながらも、トーマス氏の素性は、どこにあるのだろう、そう考える向きも少なくないことは、充分に熟知している。

ぶち切れることもあるし、神対応をしていることもある。

振り幅がありすぎるし、穏やかな人格者ではない。

ほんとは、大切な人のためなら、何でもできる、かもしれない。

でも、大切にされること、そのこと自体が求められてはいないかもしれないし、程よいところで、わたしはわたしで生きることにする。

ありがとう。

いつも、ありがとう。

そして、またどこかで。

風の吹くまま、揺られて生きる。

これから、5年後か、10年後か、わからない。

いつか、このご恩を、大切に育めるよう。

また、秋の風を待つ夜に。

◇ ◇ ◇



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