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文系教育をバカにしすぎる傾向への憂い

「文系は一生筆者の気持ちでも考えてろ」

匿名掲示板などでよく見かける文言だ。現代文の試験問題によくある「この文でわかる筆者(登場人物)の気持ちを答えなさい」というような問題文をからかっているんだと思う。真面目に答えるなら「その一文を作者がどういう意図で書いたのか、その意図を答えろ」という問題であって、だから「締め切り間に合ってよかった」とか「腹減った」とか「眠い」とかでないのは間違いないし、焦点がズレていれば減点されるのは当たり前のことだと思う。

ところで最近「日本語話者なのに日本語が理解できない」人に遭遇する機会が増えた。主にSNSでのことだが、一つの投稿に対して、そんなことは書かれていないにも関わらず勝手に想像(もはや妄想の域だと思う)して難癖つけてくる人物だ。いわゆる「クソリプ」というやつだ。「誰もそんなこと言っていない」というような返信がついていることが多い。

クソリプは「筆者の気持ちを答えよ」ができないから発生するものだと思う。そしてそういう人物ほど声高に冒頭の言葉を発している、と私は思う。要は発信者の意図を汲めなかったことを「そんなもん本人以外にわかるかよ」とかなんとか言って改めずに開き直ったまま育ってしまうとクソリプを飛ばすのだと思う。書いているからには意図があるし、それが汲める文章だから教育に採用されている。汲めないのは力量の問題でしかない。

そもそも「筆者の意図」を考えるのは文系も理系も関係ないと私は考えている。「自称理系」(理系の学問が得意という意味ではなく、文系ができないからそう名乗っているだけの人たち)はそう思わないかもしれないが、だとしたら新しく発表された学術論文はどうやって読むのだろう。もちろん大多数の人はそんなこと意識せずに読めていると思う。それは素晴らしいことなので、これからも新しい発見のために邁進してください。応援しています。

話が大きく逸れてしまったが、つまり「読解力」というのは文系だけが磨けばいいものではない。日常生活でだって、「相手の意図」がわからなければ会話すらままならない。そして実際、そういう人たちは大勢いる。これはSNSが発達しなければ見つからなかった。メディアが大きくなったために気づくことができたのは幸いだったかもしれない。

現代社会で生きていきたかったら現代文はバカにしない方がいい。そして磨き続けた方がいい。これは自戒の意味もある。日本語が理解できない日本語話者にならないように気をつけたい。

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