『教行信証』、「行巻」(1)

 『教行信証』を読む会は先週で3回目。行巻に入った。また資料を掲載する。

*前回までの内容のまとめ

 総序は、浄土教的世界観の開顕と親鸞の先達との出遇いの喜びが綴られていた。それに続く、「教巻」、正式には「顕浄土真実教文類一」(浄土真実の教を顕かにする文類)では、浄土についての真実—それはまた弥陀因位の修行や釈迦出興の理由についての教えでもある —が説かれた経が何であるか示される。それはすなわち『大無量寿経』である。『大無量寿経』で語られるのは、(1)弥陀がその因位であらせられた法蔵菩薩の御時、永劫に亘り修行と功徳を積み、その功徳の宝を衆生の往生のために名号という形で回施されたということ、また(2)釈迦が世に出た本懐はそのような弥陀の名号を人々に恵み迷いから救うためであったということ、以上の二つである。ここからして、『大無量寿経』の最も肝要な部分は阿弥陀仏の本願を説くことであり、したがって『大無量寿経』の本質はどこにあるかと言えば、それは名号に約まるのである。仏教諸派ある中で浄土真実の教すなわち『大無量寿経』の内容こそ、一切衆生の済度を可能とする真実の教である。
それではそのように言われる『大無量寿経』に説かれる真実の行・信・証とは、一体どのようなものか。

*ちょっとした図式化

浄土真実
⇒ ・往相廻向(衆生が往生すべく弥陀が廻向したもの)
→‐教=『大無量寿経』、弥陀の四十八願の顚末

 ‐行=「無礙光如来のみ名を称する」、称名 第十七願

 ‐信=「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す」 第十八願

 ‐証=「無上涅槃の極果」 ≒「往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入る」第十一願

⇒ ・還相廻向

*行巻 その一(『入門』、86ページ)

  謹んで往相の廻向を按ずるに、大行あり大信あり。
 大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり。この行は即ちこれ諸の善法を摂し、諸の 徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆへに大行と名づく。

<語注>
・無碍光如来:尽十方無碍光如来の略で、阿弥陀仏のこと。十方を尽くしても光が遮られることのない如来、どこまでも光が届いていく如来という意味。阿弥陀仏はサンスクリット語からの音写であるが、それの意味を訳せば無碍光如来や無量寿如来となる。無碍光の方は空間的に衆生を漏らさないこと、無量寿の方は 過去・現在・未来の三世に亘り衆生を漏らさないことを指す。どこまでも、またいつまでも私たちを照らし救いなさる如来という意味。

・無碍光如来の名を称する:「南無阿弥陀仏」の名号を唱えること。

・善法:万善万行のこと。

・徳本:本は因の意味。悟りの因となるもののこと。従って徳本で功徳と同じ意味。

・極速円満:信心歓喜の一念、速やかに、名号に満ち満ちた功徳が行者を充たすこと。

・真如:「真」は真実の真、虚妄でないという意味、「如」は「如常」。諸法(あらゆるもの) の実体実性となるもののことで、すべてのものを貫き生かしめるもののことと言 えると思う。

・一実:ただそれ一つが真実であるという意味。今回は「真如」を強調しており、「真如一実」で、真如の意味と同じ。

<私訳>
往相廻向を謹み慮るに、大行があり、大信がある。 大行とは、無碍光如来の名を称することであり、この行には万善万行が含まれており、それに応じた功徳が備わっている。信心を獲得し歓喜する一念、その刹那にこの功徳が私たちの身を充たしてくださる。それは万物を貫き生かしめる真如の功徳の宝海に浸かることでもあって、そのような行であるから、大行と名づける。 

<私釈>
弥陀から廻向されたものは、教・行・信・証である。教は、『大無量寿経』に書かれている。その教に含まれているのが、行・信・証である。行・信・証について考えれば、行は因で、証は果である。すなわち私たちは行因があって、しかるのち証果を獲得する。ところで末法の衆生は易行の念仏も、心は散漫、行じ得ない。教・行・証を信じることも出来ない。 驚くべきか、弥陀はそれをもお見通しになり、信心をもお与えになられた。信は行を下支えするものである。信の無い行は、行ではない。私たちは信を獲て、言い換えれば真実の真心を獲て、行じ得る。
信心を受け取るとき、同時に教・行・証を受け取るとも言える。この行は弥陀の名前を称えることである。この「南無阿弥陀仏」は弥陀の誓願によって功徳が遍満している。その行を行ずれば、即座に真実の大功徳の宝海に遊ぶに等しい。

*行巻 その二(『入門』、89ページ)

しかるにこの行は大悲の願より出でたり。即ちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相廻向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

<語注>
・咨嗟:「咨」も「嗟」も「なげく」の意味だが、悲嘆を意味すると同時に讃嘆を意味するらしい。今回は後者の意味。

・選択:弥陀による選択。弥陀は衆生済度のために必要なものとそうでないものを取捨選択 された。その必要なものの総体が四十八願で、それゆえ選択本願と呼ばれる。特に 十八願がその体をなすので、特に選択(王)本願と呼ばれる。読み方は「せんちゃ く」。

<第十七願>

‐原文
設我得仏、十方世界、無量諸仏、不悉咨嗟、称我名者、不取正覚。

‐書き下し
たとひ我仏を得たらんに、十方世界の無量諸仏、悉く咨嗟して、我が名を称ぜずば、正覚を取らじ。

‐現代語訳
もし私(法蔵菩薩)が仏になれるとしても、十方の世界の無量の仏たちが悉く皆、私の名を褒め称えないならば、私は仏にはなりません。

<第十七願・第十八願成就文>
十方恒沙諸仏如来、皆共讃歎、無量寿仏威神功徳不可思議。諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、(略)

<願成就文の解釈>
十方にいらっしゃる数多くの如来たちが皆ともに、無量寿仏の威神功徳の不可思議であることを讃め称え、衆生たちは、その仏たちが讃める弥陀の名号を聞いて、信心を獲て歓喜する。大行、それは私たちの行というよりも、諸仏が弥陀の名を褒め称える称名の行である。 私たちはそれを「聞信」(聞き信じる、聞き信心を獲る)するのである。諸仏称名、それはどういうものか。また、「聞其名号」(其の名号を聞く)とは、どういうことか。一緒に考えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?