復活の地・再会の地

聖墳墓教会の中は薄暗くお香の煙で所々靄がかかっている。所々斎場のような場所の天井からはたくさんの真鍮製の香炉が吊るされており、シャンデリアの様を作っている。灯されたろうそくの火の光と窓から差し込む外の太陽の光によって照らされる香炉は黄金の鈍い光を放っている。ここには暗闇と光が混在しているのだ。それがより一層幻想的に見せ雰囲気に呑まれる観光客はより神聖に感じてしまう。吹き抜けの天井の高いドーム状を成すこの建物の真ん中にイエスキリストが復活を遂げたとされる石墓がありキリスト教徒とおぼしき人、観光客とおぼしき人、いずれ人たちも真剣な表情で長蛇の列を作っている。わたしは最後尾に並び、その後ろ側で行われているミサを見学する。このミサが煙の発生箇所なのだ。仰々しい司祭服を着た牧師が真鍮の香炉を持って大きく揺らしながら行事を執り行っている。そのスイングが煙を吐き出し充満させているのだ。人の多さに反比例してこの場所には音がほとんどない。誰もがその様子に注目し牧師たちの無駄のない動きはため息が出るほどだった。石墓前の警備係を兼ねている牧師の人員整理の元、列が進んでいた。無言で行われるその整理術はここだからできるものだろう。ほどなく、わたしの番になり先に進む。小さな聖堂の扉をくぐる。聖墳墓教会という大きな建物の中にミニチュアのような、しかし荘厳な聖堂がある。ここが復活を遂げた場所、マグダラのマリアがラボニと囁き涙した場所だとわたしの空想は広がる。マグダラのマリアは聖書に出てくる登場人物の中で一番好きな人だ。そのためわたしの感情移入ぶりは深く、色々の研究がされ答えは出ていないとはいえ、マグダラのマリアは情婦であり妻であり、そして聖人となったという説がわたしの頭を支配しているためわたしの感情はイエスが復活したということよりも復活したイエスに出会ったマグラダのマリアの心情に向かってしまうのだ。尊敬し愛する人が磔刑を受け死んでしまい、その肉体が復活し目の前に現れるその幸せたるや、しかし触れてはならぬと言われてしまう。愛する人が目の前にいるのに指一本触れられない、最後の晩餐では隣に座り周りの弟子たちも自分が特別な存在だと知るところになっているはずなのに、この甘く切なく悲しみと寂しさの入り混じる女性の感情を真っ先に思ってしまうわたしは敬虔な信者からは嫌われてしまうだろうが、聖書を壮大な物語として読んでしまう者の性なのだ。この愛する人との再会の場所であり、彼の心が急変した場所そう思ってこの中を見回し歩くと胸が苦しくなる。そんな壮大な恋物語に想いを馳せ苦しい恋心を胸にここに立ちすくんでいるにはわたしだけかもしれないが。

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